私がヒロシマを書き始めたのは1959年。
まだ音楽高校に通う17歳で、戦争のなんたるかも、社会というものも何ひとつわからない頃でした。
はじめての上京で、ヒロシマをテーマにした宅孝二作曲、組曲《人々を指させ》の中から〈聞こえてくる〉の初演を聴いた時のことです。その合唱作品の簡略化された技法、あまりにも的確な表現に心が凍りついたのです。ヒロシマのなんだかもわからないままでしたが、「わたしはゴッホになる」(棟方志功)のように、「私もあんな作品を書けるようになる」と、さっそく友人から原爆詩集を借りて栗原貞子さんの〈私は広島を証言する〉を作曲することにしたのです。20分程の小さなオラトリオでしたが、私にとってははじめての、社会に目を向ける作品となったのでした。
幸か不幸かそれが東京の「ハトの会」の定演で初演され、(故)清瀬保二先生と林光氏の作品と並んでいたので大変恐縮したことを覚えています。終演後の批評で「ヒステリックな表現もあるが感動もある」との評を頂きホッとしたのですが、この「ヒステリックな表現」ということばはその後の私の人生に長い間つきささっていました。そして気が付けば学校も飛び出しておりました。
それからいくつものヒロシマ作品を書かせて頂きましたが「原爆ニモオオテナアモノニナンガカケルカ」の声が聞こえる度に苦しみました。でも怒りのまま、恨みのままでは何も解決はしない。それらを浄化したもの、情緒ではなく叙事的表現でありたい・・・と思うようになり、その表現方法を求めていた私は、東洋の哲学にたどり着きました。そして1975年の歌曲集《慟哭》あたりから1994年の〈私は広島を証言する〉が母体となる、オラトリオ《鳥の歌》でようやく「ヒステリックな表現」から離れたように思います。
N響の名誉指揮者であったロブロ・フォン・マタチッチ氏は《慟哭》を聴いて、「民族的であって民族を越えて伝わってくる」と評され、私にオーケストラバージョンを書くようにすすめられました。
音楽評論家の(故)松本勝男氏は、〈鳥の歌〉の関西初演を聴き、「瞬発的怒りの表現などどこにもない」と評されました。
私はこの二つの作品で、戦争をひきおこすという誰もが持つ人間の魔性をどう描けばよいのか、という課題を与えられ、それをヒロシマから学びました。その時から「私はヒロシマを」ではなく「私のヒロシマ」になったのです。
オラトリオ《鳥の歌》は、(女)メゾ・ソプラノ、(男)バリトン、(報告者)テノール、(鳥)児童合唱、と混声合唱、オーケストラ(二管)orパイプオルガンによるもので、戦後60周年の「八月の祈り」’05のコンサートまで、二十年間にわたり大阪シンフォニーホール、いずみホールに於いて連続演奏されてきました。その中で’04には母と子のバージョン、メゾ・ソプラノと児童合唱とオルガンだけの〈鳥の歌・七つの川から〉が生まれました。
人間は大事なことを伝えるために、それを神話にする知恵を持ちまた祭りとして残し、そして芸術として昇華させる・・・。
オラトリオ〈鳥の歌〉の楽譜のはじめに、私は次のようなことばを書かせて頂きました。
「広島」―(あの8月6日以前の過去)が「ヒロシマ」―(まだ答えのない現在)と呼ばれ、「ひろしま」―(未来につづくあの8月6日が語る歴史)はその重さと共にまだ私を解き放さず、今も私を育て続けています。そしてようやくこの頃になって、人間の悲哀を自分にひきつけて作品が書けることに喜びすら感じるようになりました。
「悲劇をネタに喜び」とは理不尽とお叱りを受けるでしょうが、私が「ヒロシマ」を観ることで得たものは、「人間の最初の科学的発見は、自らの死である」と言ったデュレンマットのことば通り、人間はその「死」から手探りで哲学を、宗教を、芸術を生み出したということでした。
あの8月に人間がしでかした業、今も解決の見えない不条理な「死」が見たものを探し求める、そんな仕事に携われるのは人間が生み出した唯一の知恵の行為であろうと思えるからです。
「私のヒロシマ」を支えてくださった多くの方々に感謝を申し上げます。
2005年の秋 フィレンツェにて 尾上和彦拝