太田川とヒロシマ

伴谷 晃二

  私の一番上の兄は「光司」と云いました。6人兄弟の末っ子であり、戦後生まれの私の名前と同様に「こうじ」と名づけられていました。原爆当時、広島市立中学校の1年生であり、天満川付近で建物疎開に従事していて被爆しました。兄は水泳がとても達者だったそうですが、大竹の義勇隊の方に助けられながら、橋が渡れないので天満川から川伝いに泳ぎ、元の福島川を経て夕刻やっと己斐小学校に到着したとのことです。翌日の午前1時頃、好物であった桃が食べたいと云いつつ亡くなったそうです。懸命に泳いで辿り着いた長兄の被爆当時の模様を、母は悲痛な思いを胸に時折語ってくれました。

  私にとって太田川は、幼いときの美しく澄んだ川、かつて滔滔と流れる水量豊かな川、そして常に平和を祈り続ける川、といった印象を思い起こします。かつて、そのイメージを元に《交響詩、広島・大田川によせる三章》や〈水の詩、ヴァイオリンとピアノのために〉他を作曲しました。

  《交響詩、広島・太田川によせる三章》(1993~95、委嘱作品・現国土交通省太田川工事事務所、(社)中国建設弘済会他)は、1995年11月6日、「〈交響詩、広島・太田川によせる三章〉完成記念コンサート」(広島国際会議場、フェニックスホール)において、十束尚宏指揮、広島交響楽団、広島県合唱連盟特別合唱団により、前三章が完成初演されました。当時のプログラムノートに、「太田川の改修が始まって60年、そして放水路が現在のような姿になって25周年を記念して、平成5年に委嘱されたこの作品は、いにしえから多くの人々に愛され、親しまれ、そして心の故郷でもある詩情豊かな川の印象を「太田川賛歌」として着想したものです。全体としては、人間の測り知ることのできない時間の中で、ゆっくりと変容を続ける太田川の静かな清流に、混沌とした現代社会を表現しています。またその中には、・・・・・四季折々の清流。古くから、たたら鉄や神楽との深いかかわりをもち、被爆後の広島を力強く支えながら、地域の文化を豊かに育んできた太田川。その変容をオーケストラと合唱で綴る心象風景・・・・といったイメージが織り込まれています。」と、記載されています。

  一方、〈水の詩、ヴァイオリンとピアノのために〉(1999、委嘱作品「ヒロシマと音楽」実行委員会)は、1999年8月29日、「99ヒロシマと音楽コンサート」(エリザベト音楽大学セシリアホール)において、長原幸太(ヴァイオリン)と伴谷真知子(ピアノ)により初演されました。この曲は《交響詩、広島・太田川によせる三章》と共に、「太田川とヒロシマ」のシリーズの一つともいえるものです。当時のプログラムノートには、「殊に、1945年、8月6日の忌まわしい惨状を直視し、デルタから恒久平和を切に願い祈り続けてきた太田川は、被爆時から今日にかけて、徐々に甦る、そして再生し続ける活力ある国際平和都市広島に成長したことを黙視してきました。サツキマスの生息する太田川は、このようにデルタから平和への祈りを背景とし、清流や急流など、上流域から下流域まで、四季折々の様々な表情を示しています。~(後略)~」、このような視点を背景として、この曲の創作に臨んだことが記載されています。

  太田川は広島県西北部の冠山に水源を発し、途中大小の支流を合流しながら徐々に水量を増し、広島デルタにおいて6本の流れに分かれ広島湾に注いでいます。100万都市を流れる川としては、全国にも他に例を見ない清流「太田川」は流域住民をはじめ多くの人々に数多くの恩恵を与えてきました。

  拙作《交響詩、広島・大田川によせる三章》や〈水の詩、ヴァイオリンとピアノのために〉他は、太田川がより一層愛され、地域の人々の心に永遠に生き続ける川であって欲しいと願い、太田川への感謝を込めて作曲しました。

被爆地「ヒロシマ」が真に国際平和文化都市「ヒロシマ」として再生し続けることを祈念しながら・・・・・。

(伴谷晃二・エリザベト音楽大学学部長、広島市在住)

ヒロシマと音楽

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