ポピュラー部門では、およそ70曲ばかり資料が収集されている。ポピュラー音楽の領域は多岐にわたっているので部門ごとの整備の必要性がある。大きく分けて、ジャズ系、ラテン系、ヨーロッパ系、ジャパニーズ・ポップス系、アジア系などの分野に分類できるだろう。
こうしたポップス系のアーティストたちは広島を訪れるたびに広島の被爆の実相にふれ、芸術家の良心からか、広島の印象を残しておきたいという衝動にかられるらしい。ジャズミュージシャンの場合は、コンサート会場で、突然、インプロヴィゼーションで広島に捧げる歌をプレゼントしてくれるといった状況が起こる。ギター・ソロのラリー・コリエールがその例だ。音楽は時の芸術であるから、そこに居合わせた人たちが共有するという一過性も大切なのかも知れない。これが本来の音楽のあり様かもしれない。有名なアーティストであれば、追跡調査をして、「ヒロシマと音楽」という立場から、何とか記録残しに協力してもらえないかと仕事魂の方を優先したくなる。しかし、加藤登紀子やさだまさし級になると、すでに著作権がしっかりかけられていて、詩曲のコピーもデータとして取り入れられない分野もでてくる。有名曲になればなるほど著作権料は高くなる。この人たちには、ヒロシマにかかわる歌を演奏会で頻繁にとりあげていただく方が効果的なのかも知れない。
私の「ヒロシマと音楽」の原点は、広島に寄せる歌を作詞作曲し、慰霊碑に花を捧げる感覚でプレゼントしてくれたラテン系の多くの音楽家たちにめぐり会えたことにある。それは、フォルクローレとかタンゴという分野の人たちのものであった。アタワルパ・ユパンキ氏は、ただ、自分の広島の感想という形で静かに詩だけ残し、広島讃歌としてその詩を贈呈してくださった。ウルグアイの有名なタンゴバンドのリーダーは、広島滞在中に〈サヨナラ、ヒロシマ〉という曲を作曲し、自分で詩もつけて、「サウンズ・セト」という豪華船の船内コンサートで演奏していた。福山文化圏のことでご存知でない方も多かったかも知れないが、4年間、3ヶ月の滞在で、この〈サヨナラ、ヒロシマ〉は必ずといっていいほど演奏されていた。ちなみに、訳詩者はトワエモアのおばあちゃんコーラスグループのリーダー、石橋尚子氏と不肖この山崎克洋であった。マリアちゃんという美しい女性が心を込めて歌ってくれたのが嬉しかった。ウルグアイでは、ラシアッティの原詩のまま、カセットテープとしても発売された。ラテン系でもう一人忘れてはならない人に、高野太郎さんがいる。ユパンキの魅力にひかれて、アルゼンチンの草原をかけめぐり、吟遊詩人の世界を極めた人である。〈ヒロシマは祈りの言葉〉という曲を、1992年、六本木のカンデラリアという店で歌っていたのを聴きつけ、これはぜひ広島で歌ってほしいと、翌年の文化デザイン会議のゲストとして出演依頼していたのであるが、病気のため流れるというとんだハプニングもあった。その高野さんも、2000年の「ヒロシマと音楽」コンサート(於・RCCロビー)では、朗々と平和を祈る言葉を歌い上げてくれた。
このラテン系の音楽家たちの特徴は、自分はこの曲を広島のために捧げるのであって、著作権のことにはなんのこだわりをもたないというところにある。ただし、楽譜や詩はあるものの、その人だけの音楽という限られた音楽であるために、本人が亡くなってしまうとそれを引き継いでもらえないというもどかしさが残る。若い人のなかから、新たにフォルクローレやタンゴを演奏したいという人たちが出てくれば、こうした曲を演奏してもらいたいと思う。
今、広島には、若い女性だけのタンゴ・バンド、「ラス・エレガンテス」が育っている。広島大学に留学に来ているマティア・ゴマール氏の奥さんは、アルゼンチン出身でタンゴ歌手をめざしている女性である。マリア・ラウラ・エチエベリア氏だ。現代風のタンゴも歌いこなす有望な歌手だ。こういった人たちにこれからも引き継いでもらいたいと思う。ちなみに、ラウラ氏は、フォルクローレも歌える。
ユパンキ氏は、世界のトップアーティストに位置する孤高の人であったが、1976年に〈ヒロシマー忘れえぬ町〉の詩をいただいた。シンガーソングライターの彼のことだから、当然曲として完成しているものと思い込んでいた。彼とすれば、それで充分と考えていたのだろう。その詩は、広島を愛する気持ちを切々と伝え、あたかも恋人に語りかけるような口調で書かれている。広島の復興は、自国アルゼンチンの政情不安と祖国の荒廃ぶりを比較してみながらほとんど信じられない奇跡のように感じられたのであろう。祖国アルゼンチンもこのように平和で静かな国になってもらいたいという気持ちから書かれたのだと思う。なぜならこれを作曲した1976年という年は、彼は、さながら亡命者のような形でパリ生活をしていたからである。軍事政権の異端者とみられていたのである。この詩は、ひょんなことから一人のニューヨークに住む大竹史朗君の手に渡り、ユパンキの芸術を愛するこの青年は、この詩を手にするやあたかもユパンキの心がのり移ったように一気に曲を完成させたという。ユパンキの原詩も青年風の言葉に書き直され、素晴らしい作品にできあがった。お披露目コンサートをはじめとして、広島現代美術館で催された「第1回 ヒロシマと音楽コンサート」での熱唱もあったので、多くの人の記憶に残っていることであろう。彼はのちに、世界を目指す歌手としてシロ・エル・アリエロと改名し、ニューヨーク、アイスランド、スペイン、アルゼンチンへとこの曲をひっさげてコンサートを開いている。1995年、アルゼンチンでは、被爆50周年を祈念する式典が日系人の手によって開催された。戦勝国のアルゼンチンがよく認めてくれたと思うのだが、この式典はブエノスアイレスの日本庭園で開かれ、全国放送を通じてシロ・エル・アリエロの〈ヒロシマー忘れえぬ町〉と高野太郎の〈ヒロシマは祈りの言葉〉の歌がアルゼンチン中に放送されたという。ポピュラー部会の渡部と山崎の仕掛けをできればほめてやってほしい。仕掛けたのはこの二人なのだから。音源として保存することとその音源を活用すること、この両方があって、「ヒロシマと音楽」だと思う。
広島の心を伝える音楽が、もっと多くの人たちによって世界中に広められ、理解されて世界の平和に貢献できれば嬉しい。
ラテン系アーティストにみるヒロシマ
山崎 克洋
(山崎克洋・元広島平和文化センター国際部参事)