ヒロシマの音楽と私 1979年のある日、ふらりと訪ねて来られたのが尾上和彦という奈良出身の作曲家で、いきなりこの部分を歌ってみて下さいと言われ、面くらいながらも歌ってみた。〈私は証言する〉という広島を歌ったオラトリオの中の、子供を失った母親のなげきの歌であった。 原爆音楽は、原爆を糾弾し核兵器禁止の悲願を訴えるために作曲された重要な現代文化であります。かねてから私どもは、原爆音楽の重要な意見に着目しその楽譜を収集し研究して参りましたが今般その一部を演奏して紹介する事が出来る様になりました。そのうちには新たに発見された本邦初演のものも含まれて居ります。このたびの催しは、原爆音楽を系統的に紹介し演奏する点で我が国でもおそらく最初の試みであります。 と述べられている。超満員の聴衆で、私は廊下で人々の間から舞台をのぞきながら聞くという有様で第1回がスタートした。 ヒロシマの音楽を振り返る 1945年8月6日に原子爆弾が広島に、ついで8月9日に長崎に投下された。芝田進午氏の原爆音楽の作品リストと年表によれば、長崎の作曲家木野普見雄氏によって歌曲〈独り息つぐ〉、〈鬼の哭く〉(作詞 桑名茗革)、が発表されている。翌年の1946年6月には山田耕筰が〈原子爆弾に寄せる譜〉を作曲し、同年9月に葉室潔バレエ団によって舞踊化されている。また同じ年には、〈歌謡ひろしま〉(山本紀代子作詞、古関裕而作曲)、被爆一周年記念懸賞当選作(中国新聞社募集)、〈広島復興音頭〉(村山洋作詞、岩田真次作曲)、(広島県教育委員会選定)が生み出されている。1947年には、〈ひろしま平和の歌〉(重園贇雄作詞、山本秀作曲)(広島市選定)、1948年には〈ヒロシマの歌〉(大木惇夫作詞、乗松昭博作曲)が平和式典で発表されたほか、〈基町音頭〉(益井昭夫作詞、山本寿作曲)、〈広島復興の歌〉(藤井啓一作詞、山本寿作曲)が発表された。1949年には〈広島平和都市の歌〉(大木惇夫作詞、山田耕筰作曲)のほか、〈1949年8月6日に寄せる歌ヒロシマ〉(エドモンド・ブランデン作詞〔訳 寿岳文章〕、山田耕筰作曲)が平和式典で発表されている。一方、長崎では、〈長崎の鐘〉(サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲)、〈平和は長崎の鐘から〉、〈平和の誓い〉(島内八郎作詞、木野普見雄作曲)、〈あの子〉(永井隆作詞、木野普見雄作曲)など多くの作品が、時には映画の主題歌として、時には慰霊碑の除幕式や平和の式典のために、時には市教育委員会や新聞社の募集などによって誕生した。 オラトリオ《鳥の歌》 作曲 尾上和彦 1960年12月小オラトリオ《私は証言する》 1981年10月には歌曲集《慟哭》(山田数子作詞)のオーケストラ版が完成し、日本フィルファーモニー交響楽団、独唱松本孝子、指揮エルヴィン・ルカーチにより初演された。ピアノ版は1975年に作曲されていたが、このオーケストラ版を尾上和彦氏の作品の中で最も高く評価したいと多くの評論家が語る。彼はヒロシマをテーマに今も自らを解放するために仏陀を書きつづけている。 参考資料 「広島平和音楽祭」で演奏された曲 参考資料 「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキのためのコンサート」で演奏された曲 〈生ましめんかな〉 作詞 栗原貞子 作曲 福島雄次郎 俳句にも作曲され、私が歌った。
これが尾上氏との最初の出逢いで、劇団月曜会の方からの紹介で私を訪ねられたこともずいぶん後になって知り、これをきっかけとして、被爆者でもあった私はヒロシマの音楽に深くかかわる様になっていった。
当時、私は相生橋の西詰めに戦後一番早く建った和田ビルの2階に住んでいたが、「ここで私は広島を書きたい」と尾上氏に占領され、私は4階に移った。この土地は爆心地で悲惨な死をとげた人々のお骨も埋まっていて、その鎮魂の気持で広島を作曲してもらえるのなら出来るだけのお手伝いをしたいとその時心に決めた。
1980年は被爆35周年にあたり、8月6日に見眞講堂に於いて、原爆犠牲者の鎮魂・原爆音楽の紹介・被爆者支援のための「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」が開催された。主催は「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」実行委員会で、外山雄三、市場幸介、永井主憲、広島平和文化センター、原爆問題広島総合研究会、広島平和教育研究所、被爆教職員の会、広島県被爆者団体協議会(森滝市郎理事長・佐久間澄理事長)の協賛を受けていた。
実行委員会の中心人物は、当時、広島大学哲学・社会科学の教授であった故芝田進午氏で、企画・制作は作曲家の木下そんき氏であった。プログラムのごあいさつでは、
当時私は、音楽科を持つ高校と短期大学に在籍していたので、歌える人々のグループ、広島オペラアンサンブルを発足させ、9月には尾上和彦氏の作品を集めて、小オラトリオ〈私は証言する〉を公演した。さらに翌一1981年に開催された第2回「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」に、この広島オペラアンサンブルが〈愛の歌 ― ヒロシマの子 ― 〉(深川宗俊作詞、安達元彦作曲)で参加した。その事がきっかけで実行委員となり、私はこのコンサートに深く関わっていく事となった。
「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」は、その後「ノーモア・ヒロシマコンサート」と名前を変更して、フォークソングからポピュラー、クラシック、邦楽、詩吟、朗読に至るまであらゆるジャンルのものが生み出され演奏されていった。そうして、広島、長崎から東京、大阪、名古屋、長野、札幌等で、名前は異なるがノーモア・ヒロシマ・ナガサキのためのコンサートが数多く開催された(演奏された曲目については文末を参照されたい)。このうち、歌曲集《ヒロシマという時》(栗原貞子作詞)の3曲目、〈原爆で死んだ幸子さん〉は、原作者の許しを得て独語訳されたものにウド・ツィンマーマンが作曲し、広島出身でベルリンに在住の中田千穂子さんによって演奏された。時が流れて、中心で指導されていた芝田氏も広島大学を定年退職されて東京へお帰りになり、実行委員も年ごとに少なくなり、20回で幕を引いた。その後は、私と広島合唱団事務局のO氏の二人で運営をしていた。会場は見眞講堂から東区民文化センター大ホール、そしてスタジオへ移ったが、スタジオへ移ってからも、アメリカより来日していた反戦のフォークソング歌手、ピート・シーガー氏を招き、当時大流行の〈花はどこへ行った〉等が歌われて、会場を埋め尽くした超満員の人々がどよめいたのを覚えている。
結局、2000年にノーモア・ヒロシマコンサートは幕を引いたが、中心になって活躍した広島合唱団にも転機が訪れ、ピースコンサートにバトンタッチしてスタートすることになった。
私自身も、箏、三弦、尺八、ピアノによる伴奏で、作曲者は忘れたが「広島によせる」歌を演奏、また1971年8月には構成詩《未来を語りつづける》(深川宗俊作詞・構成、安達元彦作曲)の中の〈小さな骨〉を原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑除幕式で歌った事を覚えている。
原民喜氏の〈永遠のみどり〉につよく魅せられた作曲家助川敏弥氏は、「静かな祈りのうちに深い平和への願いがこめられていて、実際に広島を訪れ橋からこの深い緑を眺めてその感銘は一層深くなった。あるとき声楽家の江川きぬさんに、この詩を見せた時ぜひ作曲してほしいという事になりそれが実現した。ついてはこの詩を外国の人にも理解してもらおうという事になり、二人の知人が多いのがドイツ語圏なので、ドイツ語に訳してもらうためベルリン在住のピアニスト・作曲家ヨハン・G・フォン・ヴロッヘン氏に依頼した。氏は大の親日家で数回来日、日本語を熱心に勉強している人である。彼の訳は実に見事なもので名訳と思われる。まず日本語で歌われ、次にドイツ語で歌われ、全曲を通してひとつの曲としてとらえてほしい」と言っている。1988年7月28日にはオーストリア・インスブルックで江川きぬさんによって初演され、89年7月9日にはお茶の水カザルスホールで再演されている。〈永遠のみどり〉は、すずききよし、岡田和夫、外山雄三氏によっても作曲されている。
このように一つの曲が生まれ育っていくためには、聴衆も含めて実に大勢の人々の心が寄せられている。私が尾上和彦氏と関わって誕生したオラトリオ《鳥の歌・ひろしま》も、小オラトリオ〈私は証言するから〉から幾度補筆修正されたことか。
一.黒い雨 作詞 原民喜・土屋清
二.廃墟の中で 作詞 峠三吉・土屋清
三.生き残った私 作詞 栗原貞子・土屋清
四.死んだ少女 作詞 栗原貞子・ナジムヒクメット(訳 峯俊夫)
五.哀れな地球 作詞 原民喜
六.警鐘 作詞 土屋清・栗原貞子
七.鳥 作詞 土屋清
1983年5月《鳥の歌・ひろしま》(オーケストラ版)
1985年8月《鳥の歌》(改訂版)という風に完成していった。
一方、ノーモア・ヒロシマコンサートより以前には、広島平和音楽祭が広島テレビの主催で1974年8月9日に発足している。この音楽祭は、実行委員長が古賀政男氏であったので、ポピュラーの分野でヒロシマに関する作品が多く生み出されている。
〈一本の鉛筆〉 作詞 松山善三 作曲 佐藤勝
〈風よ月よ人よ〉 作詞 山田数子 作曲 森山良子
〈橋はいつも〉 作詞 上條恒彦 作曲 小室等
〈悲しみの終わるときまで Ⅰ〉 作詞 岩谷時子 作曲 いづみたく
〈悲しみの終わるときまで Ⅱ〉 作詞 岩谷時子 作曲 いづみたく
〈千羽鶴〉 作詞 林春生 作曲 馬飼野俊一
〈宛名人不在〉 作詞 なかにし礼 作曲 吉田正
◎〈戦争を知らないから〉 作詞 山田愛毅 作曲 榊原政敏
◎〈ヨシオ君に何があったん?〉 作詞 熊谷勇二 作曲 団伊玖磨
◎〈ひとは今〉 作詞 森脇美奈子 作曲 団伊玖磨
◎〈もんぺの母さん〉 作詞 小川洋子 作曲 平尾昌晃
〈未来への約束〉カンタータ 作詞 石本美由起 作曲 小川寛興
◎〈平和公園〉 作詞 大槻明子(補・石本美由起) 作曲 大塚博堂
〈ひろしまの母〉 作詞 石本美由起 作曲 古賀政男
〈ヒロシマあるかぎり〉 作詞 竹森眞喜男 作曲 団伊玖磨
◎〈歴史〉 作詞 石崎勝子(補・石本美由起) 作曲 森田公一
〈川に映る町〉 作詞 星野哲郎 作曲 小杉仁三
〈百万本の花より〉 作詞 星野哲郎 作曲 小杉仁三
〈時を超えるもの〉 作詞 星野哲郎 作曲 小杉仁三
〈被爆地広島の桜〉 作詞 野口家嗣 作曲 平井哲三郎
◎〈相生橋で〉 作詞 田村和男(補・石本美由起) 作曲 庄野真代
〈二人のふる里〉 作詞 栗原淳子(補・石本美由起) 作曲 吉田正
◎〈命の手紙〉 作詞 州加本有衣子(補・石本美由起) 作曲 西脇久夫
〈夾竹桃の子守唄〉 作詞 石本美由起 作曲 団伊玖磨
◎〈広島・市電・街景色〉 作詞 三宅辰美(補・石本美由起) 作曲 因幡晃
◎〈継承〉 作詞 古河礼子 作曲 サーカス
◎〈ともこ〉 作詞 佐久間紀久子 作曲 八角朋子
〈太田川物語〉 作詞 石本美由起 作曲 団伊玖磨
◎〈ねがい〉 作詞 安藤シゲ子 作曲 小川寛興
〈鈴のレクイエム〉
〈ベルの音ひびくこの場所で〉
◎〈風になれたら〉 作詞 萩原志賀子
◎〈時間よ〉 作詞 梶原しげる 作曲 堀内孝雄
〈誰かどこかで〉 作詞 なかにし礼 作曲 鈴木邦彦
◎〈このまま時が止まればいいのに〉 作詞 稲田美都恵 作曲 五輪真弓
◎〈生きていてよかった ありがとう〉 作詞 森下義数 作曲 吉田正
組曲〈ホタルの家〉 作詞 杉紀彦 作曲 安川泰作
〈ほたる来い〉 〈ほたるかごの詩〉
〈きのこ雲〉 〈ほたるのいない川〉
〈ほたるの帰還〉
◎〈Truth〉(真実) 作詞 大原由香 作曲 服部克久
◎〈チョコレートの海辺〉 作詞 富沢知哉
〈百万本のばら〉
〈Never Forget Hiroshima〉 作詞・作曲 加藤登紀子
◎〈僕らの未来〉 作詞 古澤誠 作曲 イルカ
〈あしたの君へ〉 作曲 イルカ
〈あの金を鳴らすのはあなた〉
◎〈僕の仲間へ〉 作詞 水沢均 作曲 森山良子
〈天使の地球〉 作詞 岡田冨美子 作曲 五木ひろし
〈ゴールデンメイプル賞メドレー〉
◎のついている曲は、「メイプル賞」受賞作品である。「メイプル賞」とは、広島平和音楽祭が歌詞を募集して入選した作品に与えた賞で、受賞作は作曲家によって曲付けされ音楽祭で演奏された。また、人気のあった曲は、再演もされている。
出演者も豪華な著名人ばかりで、小柳ルミ子、堀ちえみ、サーカス、大川栄策、八代亜紀、岡村喬生、庄野真代、石川さゆり、森進一、フランク永井、中森明菜、斉藤昌子、五木ひろし、二葉あき子、森山良子、シブがき隊、新沼謙治、本田美奈子、岩崎宏美、小林幸子、布施明、堀内孝雄、中山美穂、細川たかし、近藤真彦、美空ひばり、友竹正則、島田祐子、栗林義信、伊藤京子、平野忠彦、立川清登、五十嵐喜芳、中沢桂、上條恒彦、堺正章、島倉千代子、デュークエイセス、早見優、五輪真弓、加藤登紀子、リチャード・クレイダーマン、和田アキ子、テレサ・テン、伍代夏子、大橋純子などである。さらに、司会には高島忠夫、松島トモ子、明石家さんま、春風亭小朝、さとう宗幸、小室等、などが参加している。会場は県立体育館ではじまり、第13回からは広島サンプラザで開催された。そして、ノーモア・ヒロシマコンサート同様、広島平和音楽祭は第20回で幕を閉じている。
私のデータベース作成の範囲は、クラシックの声楽曲に限られているにもかかわらず、ノーモア・ヒロシマコンサートと広島平和音楽祭まで拡げて合唱曲、ポピュラーの部分までどうしても記しておきたく自分でも混乱をまねいている。その上まだまだ書き足りない、ふれておかなければならない作品も多くある様に思えるが残された紙数もわずかとなった。
私は演奏家であり企画制作者なので、作品を整理して並べておくのではなくて、何処からか探し出し掘りおこしステージにのせるために努力をする。ほとんどの作品は、まだ用いた事もなければ譜面を見た事もないので、どんな作品なのか大変興味深い。そのため、楽譜やその他の資料が整理され、多くの人の目に触れどんどん演奏される事を心からねがっている。2005年は原爆が投下され60周年を迎える。あの時に命をながらえる事が出来た者として、多くの霊を慰め平和をねがって、オラトリオ《鳥の歌》を、2005年7月30日広島、31日呉で公演する計画をたてている。
私事で恐縮だが大阪の高等女学校を卒業、空襲の恐怖に耐えかね疎開、広島女専(現在の女子大)の国文科に入学のため1945年7月24日広島の地をふみ、8月6日の惨事に遭った。その後、国文より音楽に専門を変更、ベルリンに留学、帰広後、1980年より深くヒロシマの音楽にかかわり、今日に到っている。60年の重みをしっかり受け止めてこれからも、日本中、いや世界中にあんな事が二度と起こらない様に語り続け、歌い続ける人々を支えてゆきたいと思っている。
〈祈り〉 作詞 藤本洋 作曲 林学 編曲 林光
〈河を流れているような〉 被爆中学生の記録より 作詞 関忠亮 作曲 林光
〈ソプラノとコントラバスと打楽器のための祈り〉 作詞 山田数子 作曲 早川正昭
〈子供らに伝えたい〉 作詞 小森香子 作曲 熊谷賢一
〈誰がこしらえたの〉 作詞 有馬敲 作曲 熊谷賢一
〈ガラスの風船〉 作詞 門倉訣 作曲 熊谷賢一
〈八月の歌Ⅰ〉 イ.青い閃光 作詞 草間透 作曲 本間雅夫
ロ.慟哭 作詞 山田数子 作曲 本間雅夫
ハ.コレガ人間ナノデス 作詞 原民喜 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅱ―四声とピアノのためのモテトゥス―〉 作詞 山田数子・原民喜 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅲ〉 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅳ―語り伝えよ―〉 作詞 青木渡 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅴ―さつまいもの歌―〉 作詞 水野潤一 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅵ―僕は死ねない―〉 作詞 徳納晃一 作曲 本間雅夫
〈八月の歌Ⅶ―微笑―〉 作詞 峠三吉 作曲 本間雅夫
〈南天の花〉 作詞 永井隆 作曲 山田耕筰
〈白ばらの〉 作詞 永井隆 作曲 山田耕筰
〈爆心地の鳩〉 作詞 小野十三郎 作曲 宗像和
〈巷塵〉 作詞 米田栄作 作曲 升田徳一
〈死んだ女の子〉 作詞 ナジム・ヒクメット 作曲 外山雄三
〈死んだ女の子〉 作詞 ナジム・ヒクメット(訳 飯塚広) 作曲 木下航二
〈死んだ女の子〉 作詞 ナジム・ヒクメット(訳 峯俊夫) 作曲 すずききよし
〈傷だらけの手〉 作詞 福田須磨子 作曲 木下そんき
モノオペラ〈ひろしま〉 作詞 門倉訣 作曲 寺原伸夫
〈悪魔〉 作詞・作曲 美輪明宏
〈祖国と女達〉 作詞・作曲 美輪明宏
〈故郷の空の下で〉 作詞・作曲 美輪明宏
〈亡霊達の行進〉 作詞・作曲 美輪明宏
〈平和公園の灯〉 作詞 村井和子 作曲 葦原邦子
〈夾竹桃〉 作詞 門倉訣 作曲 藤家虹二
〈ガラスの風船〉 作詞 門倉訣 作曲 藤家虹二
〈風ぐるまの唄〉 作詞 門倉訣 作曲 藤家虹二
〈虹がでるとき〉 作詞 門倉訣 作曲 藤家虹二
〈雲が人々を殺さぬよう〉 作詞 ナジム・ヒクメット(訳 角田勇) 作曲 岡田京子
〈死んだ少女〉 作詞 ナジム・ヒクメット(訳 峯俊夫) 作曲 清瀬保二
歌曲集〈ヒロシマという時〉 作詞 栗原貞子 作曲 ウド・ツィンマーマン
一. ひろしまのみどり
二. 折づる
三. 原爆で死んだ幸子さん
〈原爆忌〉 句 浅野逍風 作曲 アレクサンダー・ラパポート
〈被爆者の想い〉 句 出井知恵子 作曲 アレクサンダー・ラパポート
ヒロシマの音楽を生み出した現場と作品(主として歌曲)
千葉 佳子
(2004年11月3日 記)
(千葉佳子・広島オペラアンサンブル代表)