「ヒロシマと音楽」と私

渡部 朋子

 「ヒロシマと音楽」の実行委員会委員として参加することになった機縁は、「Hiroshimaの詩にであう会」の活動にある。当時私はこの会の代表を務めていた。「Hiroshimaの詩にであう会」とは次のような思いで活動していた会である。
    

ヒロシマの詩(うた)への思い

 人類初の原子爆弾投下で廃墟と化しながら不死鳥のようによみがえった広島は、あの日から48周年の夏を迎えました。身を持って平和の大切さ、尊さを世界に示し続けて来たヒロシマの姿は、地球上多くの人々との感動と共感を呼び起こしてきました。
 あるときは詩人が、あるときは宗教家が、いや広島を訪れた多くの人々が「ヒロシマの心」に触れて、生きる歓びと平和の誓いを詩などに残しています。それらはあちこちに散逸していますが、一つ一つを音楽表現という形で掘り起こし「ヒロシマの心」として記録していったらどうだろうか。そんな気持ちで昨年度、広島と呉の音楽好きの有志が集まり結成したのが「Hiroshima の詩にであう会」で、フォルクローレの父アタワルパ・ユパンキ氏が生前残した「Hiroshima―忘れえぬ町」(シロ・オオタケ訳詩作曲演奏)の披露コンサートを開催いたしました。今回は広島文化デザイン会議のオープニングコンサートとして、NYで活躍中のシロ・オオタケ・ロサウラ・シルベストレ、石井良道ら内外のアーティストをお招きし「であう会」として新たに召集した『Hiroshimaの詩』の数々を朗読、演奏の形で発表する運びとなりました。どうか私どもの以上のような思いをお汲み取りくださり、詩の輪が「ヒロシマの心」となって世界に広がっていくようお力添えをお願い申し上げます。
  本日はご来場誠にありがとうございました。

1993年8月27日
Hiroshimaの詩にであう会
(広島文化デザイン会議(1993年8月27日)オープニングコンサートプログラムより抜粋)

 
 この広島文化デザイン会議オープニングコンサートで、私達が市民の皆様に御紹介したのは、ペルーの詩人、ビクトル・ラサルテ氏の〈佐々木禎子に捧げる詩〉、そして高野太郎氏による〈「ヒロシマ」は祈りの言葉〉という歌、シロ・オオタケ氏の作曲・演奏の〈ヒロシマ―忘れえぬ町〉であった。
 翌年の1994年にはコンサートを開催、モンゴルの歌手オユンナの歌う〈ヒロシマの少女の折鶴〉、シロ・オオタケの〈ヒロシマ―忘れえぬ町〉を市民の皆様に御紹介した。
 こうして「Hiroshimaの詩にであう会」は、詩と音楽によって世界の人々が「ヒロシマ」を理解し、1945年8月6日の悲惨な事実と今日のよみがえったヒロシマの街を心にきざみ続けて下さることを願い活動を続けていたが、市民グループの小さな活動には限界があり、私達の思いを形にして、きちんと記録して残していくことの必要性を感じながら現実的には難しかった。そのような時に中国放送が被爆50周年事業として、「ヒロシマと音楽」事業をたちあげたのである。

watanabe

 山崎克洋氏から事務局へ紹介された私は、市民の立場でこの事業に参加することとなり、今日に至っている。
 「ヒロシマと音楽」実行委員会委員として私が参加させていただくことで、「Hiroshimaの詩にであう会」は当初の目的を達成したとして1995年に解散した。
 「ヒロシマと音楽」実行委員会の他の委員の皆様は、各々にすばらしい音楽の専門家であり演奏者でもある。それとひきかえ私はどのジャンルの音楽の専門家でもない。
 私の担当はポピュラー音楽の分野の担当であったが、まったくの素人の私にはインターネットで検索して、データベースを整理することぐらいしかできない。そこでひらめいた。私にできることがあったのだ。それはこれまでのボランティア、市民活動を通してつちかった多くの人々とのつながりを通して、この分野の音楽家の方々にこの事業を紹介し、お力添えをお願いすることだった。担当のポピュラー音楽に関しても、高橋一之氏の応援なくしては、データベースの整理はできなかったのである。ポピュラー音楽分野に関する専門的な話や、その世界に生きた人の思いについては、増田泉子さんにお願いして、高橋一之さんの話を聞き書きしてまとめていただいた。別項にその話をまとめている。是非お読み頂き、広島のポピュラー音楽の世界に生きている人々が、「ヒロシマ」と音楽とにどのようにかかわり、取り組んだのか、記憶に残していただくとうれしい。
 私が「ヒロシマと音楽」に関わるようになったきっかけは、フォルクロ―レの神様といわれるアルゼンチンが生んだ偉大な音楽家、アタワルパ・ユパンキが広島に残した一遍の詩「ヒロシマ―忘れえぬ町」との出会いである。

灰の中の不死鳥のように
苦しみを歓びへと謳いあげる
ベートーベンのシンフォニーのように
そして今 息をふきかえそうとする
伝説の英雄のように
君は粉々になった肉体を
ふたたび 悠久の水と光によって
物語のかなたへ 歌のかなたへ
そして 希望のかなたへと
よみがえらせようとしている
ああ 君は 未来をうらなう農夫
おおいなる夢を見る 種蒔き人
ごらん 君とぼくは 今 ひとつ
愛するヒロシマよ
ごらん ぼくたちは 一つ
愛するヒロシマ

あの夜のことをおぼえておるかい
ひきさかれた着物よ
さぞ あつかったことだろう
大地は やけつく太陽よりもあつく
おまえをつつんだのか
すべてを おおった恐怖
子どもたちを 失った町
山の松の木はたおれ
野の稲は枯れ果て
空をまう鳥は息たえ
星空のもと
物語を伝える笛の音もやみ
すべては静けさのなか
さよならの言葉もなく
涙を流すこともなく
ともに歌うこともなく 去っていった
たとえようのない恐ろしい瞬間
君たちは 静かに去っていった
ヒロシマよ

でも神は
君のやさしい愛をみまもっていた
君のきよらかな種を
君の 美しく深い声を
そして 今 君はよみがえり
はじらいながら色つく桜の木を
ふたたび そめあげ
そして 母親たちは 夕べに
しずかに歌いだした
ねんころろ ねんころろ
ねんころろ ねんころろ
ごらん 君とぼくは
今 ひとつ
ヒロシマ
お聴き ぼくのギターは
君を想って歌う
ヒロシマ
さよなら
今 ぼくはここを 去るけれども
ぼくの魂は いつまでも君と共にいよう
さよなら
ヒロシマ                           (訳 シロ オオタケ)

 この詩に出会った時に、私の中で「ヒロシマ」の持つ意味が大きく変わった。悲惨と苦しみのシンボルとしての「ヒロシマ」から、「よみがえった美しい町、希望を与えることのできる町」、「ヒロシマ」として堂々と私の前に現れたのである。
 この時から、私にとって「ヒロシマ」は平和をつくりだす人々が集い、共になぐさめはげましを与え合う場所として意識され、平和をつくりだすための草の根の実践を積み上げていく場へと変わっていった。
 
 「ヒロシマ」の事実は忘れられてはならないと思う。事実は事実としてきちんと記録され、後世の人々に伝えていく努力を惜しんではならないが、次の世代を生きるものにとって「ヒロシマ」の本質にせまるためには、音楽、演劇、絵画など、芸術の力による手助けが重要な意味をもつのではないかと感じている。とくに音楽の力は大きい。国境も軽々とこえていく力がある。
 
「ヒロシマと音楽」の事業も、データベースを資料館に引き渡し終えた今、この本の出版をもって大きな節目を迎えている。
 私は「世界の中のヒロシマ」を深く聴く旅に時々でかけている。今この世界で「私達の苦しみ、つらさはヒロシマと同じだ」と語る多くの人々がいる。そのつらさや苦しみをたずね聴く旅である。
 私は、これからも、「世界の中のヒロシマ」を探す。「ヒロシマ」の60年に渡る経験が、平和を創り出そうと悪戦苦闘する世界の人々にとって希望になると信じて、ともに手をつなぎ働きたいと思う。

(渡部朋子・ANT-Hiroshima代表)

ヒロシマと音楽

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