委員会の活動を振り返って

濵本 恵康

  今回の資料収集が始まって委員会が一番大きな壁にぶつかったのは、その数が1000を超えた頃からであろうか。 
  「そう言えば、どこどこの演奏会で、そんな曲を聴いたような・・・」などと、とてつもなく不安な記憶を頼りに、いきなり電話や手紙で連絡を取るのであった。勿論その資料が見つかったり、ましてやそれが重要な内容であったり、新発見であったりでもしたら万々歳であった。
  しかし尋ねてみると、期待とは裏腹に、もうどうしようもないくらいに当てがはずれ、落胆したこともたびたびあったのである。
  資料を収集していてしばしば言われていたことは、「どうして広島に暮らしていない人たちが、被爆の地広島の音楽を作っているのか」という内容であった。そのご意見はごもっともで、聴かれた私は、なんとなく答えに詰まっていたこともあった。私にとって広島に関わる音楽を研究するということは、ある意味当たり前の事のように思え、この仕事を手伝わせて頂くようになってからも、あまり疑問を挟む余地など無かったのである。逆に、「広島の人はみんな、原爆に関わる音楽をやらなければいけないのであろうか。いや、決してそうではないだろう」などと、色々なことを考えながら、全く以て微力ではありながら、他の素晴らしいスタッフの皆さんに、何とかついて来たという感じがするのである。
  いわば日本中の作曲家達が、いかにも自分の身の上にかかった出来事であるかのように、この地広島を思い、作品を作ってきたのである。それは、私が広島を思う気持ち、そして日本を思う気持ちと同じ事ではないかと思っている。平和であることに心を忘れ、広島の人間としての意識を失いかけていた自分に、改めて気づかせてくれたのが、素晴らしい数々の作品であった。
  広島という町は、まことに不思議な空間であるように思う。「平和都市広島」という感覚が、世界中に浸透していると思っていたが、なかには本当の広島の歴史を知らない人も数多くいるのである。たった一発の原子爆弾で一瞬のうちに廃墟となり、しかも現在もなお放射能による後遺症に悩まされている多くの人たちがいるのに・・・。
 

よそから訪ねてきた人に
「今は平和な近代都市に復興しましたね。」
というような事を言われると、
「とんでもない、まだまだ人の心には戦後の傷跡が残り、世界に平和を訴え続けていかなければ・・・」
と、いかにも広島人らしいセリフを言うのである。そして、
「まだまだ世界中に、核のない平和な世界を訴えていかないと・・」
と、言っても実は、一人一人の力ではなかなか何も出来ないことも知っている。

  広島の人間は、そうやって世界中から広島の悲しい歴史に、しばしば涙を誘うのであるが、被爆直後の惨状を知らない人や、一度も原爆資料館に足を運んだことのない人たちが、まだたくさん住んでいるのも現実のようである。
  「なぜ広島に生まれて来たのか・・・」。自分への問いかけであったけれど、広島人であることを自分の中で改めて認識した時に、はっきりと「ヒロシマと音楽」のプロジェクトに参加した意義が明確になったのである。
 
ヒロシマの音楽が願う世界平和
 
  1945年8月6日8時15分、一発の原子爆弾により、広島は一瞬にして焼け野原になり多くの人が亡くなり、あれから実に60年の歳月が過ぎた。それでも今なお世界各地で平和運動が進められ、核兵器廃絶、原水爆禁止の運動が何度も繰り返され、核と人類は共存できないと叫び続けられているのである。にもかわらず、核兵器はこの世から無くなっていない。私たちの広島は、瀬戸内海の穏やかな海と温暖な気候と、緑の多い山々に囲まれて、今では静かな時間が流れているが、世界の中の平和都市として、まだまだ手を休めるわけにはいかない。我々がやらなければならないことは、何ものにも代え難い多くの尊い命を思いながら、民族や国家間の相互理解、世界の人々との触れ合いを願って、これからも戦争のない平和な世界を構築していくことの大切さである。そのためには、心の通う音楽が一つの大きな手段であると確信している。
  60年という歳月が過ぎて、日本全体もそうであるが、とりわけすさまじく変化し続けて来たのが、この地広島の町の姿である。市内を歩いてみると、ふとした瞬間につくづくそう感じることがある。原爆ドームの横を通り過ぎる時、旧日銀の前を通り過ぎる時、千田町の広島大学の旧理学部跡地など、かすかに一瞬だけ生々しい傷跡が残っている。しかしその前を一歩通り過ぎると、そこにはあたりまえだが、整備された道路、所狭しと立ち並ぶりっぱなマンションやビルディング、現代技術の結晶した賑やかな地下街、そしてアストラムラインなど、ヒロシマのあの一番不幸な日を忘れらてしまいそうなくらいになって来たのである。
  広島には、ヒロシマの音楽がある。それは、純粋に祈りを捧げられた「ヒロシマの心」が歌われ、クラシック、ポピュラー、邦楽、民謡と形こそ様々であるが、核廃絶や戦争撲滅を唱えて強く平和を希求した内容でできている。まさに、「平和音楽」の行進と言えるのである。しかし、今ヒロシマの音楽のほとんどが、実は洋楽という範疇にはいり、クラシック音楽という形での室内楽、歌劇、声楽曲、管弦楽曲などがその大部分を占めている。現在のデータ1867曲のうち約4割をクラシックが占め、邦楽や民謡の数はかなり少ないのである。
  明治の頃、日本に初めて導入された小学校唱歌は、新興国アメリカの音楽の教科書、つまりは、ヨーロッパの輸入音楽を真似たものであった。当然と言えば、その通りではあるが、戦後はいきなり楽譜やリズム、拍子にしても、結局は「輸入音楽」に倣ったものであった。西洋の音楽を徹底的に取り入れたのには、いくつかの理由が挙げられそうである。その一つには、戦後の復興期の盛んな折りに、個人のレベルまでしっかりと浸透させるのが目的であったのである。そのために、日本には広く西洋音楽が根付き、今日に至ったのである。西洋のスタイルを全面的に導入した国は、日本をおいて、おそらく他には見あたらないであろう。当然戦後生まれの私が、鼻歌で民謡や邦楽の一節でも出てこようものなら、それもおかしなことかも知れない。そして敗戦の直後、この地にエリザベト音楽大学の前身である広島音楽学校が、そしてその翌年には、広島音楽高等学校が開設されたである。
  あれから今日までに、多くの作曲家が反核、反戦の作品を被爆都市広島のために作曲しているが、それは、音楽をただ慰めや娯楽のためだけに書いているのではなく、音楽を通して人間のあり方や世界の平和について考えていくことが、本当に大切だからだと信じているからである。この一歩間違えれば、危機的な状況さえ生まれてしまいそうな今の世界の中で、作品は「ノーモア・ヒロシマ」を訴え続けているのである。広島を想って作られた、いわゆるクラシック音楽のスタイルを持つ曲は、この数十年間に渡って新しく生まれ変わろうとしている。特に、それらは現代の邦人作品の中には顕著に現れており、作品のスタイルは時と共に変化してきたようである。
 
邦楽・民謡による作品

  邦楽作品においても、そのスタイルには顕著な変容がうかがえるのである。現代の作曲家の創作による作品は、その作曲の技法や、また演奏者に求めている演奏技法に斬新なものが数多いようである。特に、尺八を始めとして、太鼓や三味線、琴などのために書かれた新しい演奏スタイルのものも多い。昭和43年に芸術祭奨励賞をとった音楽ドキュメンタリー「朝顔」は、邦楽による交響楽に挑戦している。この交響楽の録音は、東京の東芝音楽工業の大スタジオで行われている。第一楽章〈受難〉は、杵屋巳太郎作曲、琴と尺八で8月6日の午前8時14分までを描いている。そして、第二楽章〈地獄〉は藤舎堆峰作曲、時刻8時15分を描く。打楽器、小太鼓を中心に、その他、尺八17弦などが活躍している。第三楽章〈怒り〉は、常磐津文字兵衛作曲。遺族の祈りが、悲しみから激しい怒りに変わっていく三味線を主体にして、無限の時間の流れを表している。なかでも義太夫三味線の竹沢弥七と長唄三味線の名手杵屋五三助の掛け合いの見事さは、今でも語り継がれている。第四楽章〈鎮魂〉は、今藤政太郎作曲。被爆詩人垰三吉の詩「人間を返せ」から取られ、観世栄夫、今藤文子らの独唱から始まり、合唱へと展開していく。後に英語版を制作し、スペインのオンダス賞コンクールにも参加している。
  改めて考えてみると、尺八などの楽器が、千数百年の時を経て今日に伝わっていることを思えば、一人の作曲家や演奏家によって、新たな奏法を開発できるほど未開発なものではなく、たとえば五孔しかない竹筒で、その孔の中に無限を感じる日本人の心が、現代の作品をも支えているような気がするのである。邦楽家による、ヒロシマに関わる作品の数は少ないのであるが、そのなかでも忘れてはならない人に、人間国宝の島原帆山、初代中尾都山、そして坂本勉らを挙げることができるであろう。広島市出身の帆山は、中尾都山に師事し広島邦楽舞踏協会会長などを務めていた。彼が原爆で廃墟となった広島の町をみて、即興で吹いたのが〈平和広島〉であり、その編曲を都山に依頼してできたのが、〈平和の山河〉である。
  民謡となると、その数はかなり限られてくる。元来、民謡はあまり盛んでないのかと思われていた広島にも、後の調査で3000曲余もあることがわかっている。ただ、戦後の広島の町を想い作られた曲は、あまり見つからなかった。いわゆる世界の平和を願い歌ったものはいくつかあり、その中でも広島の町の復興を願った代表的なものに、〈復興小唄〉〈広島復興音頭〉などが挙げられる。クラシックやポピュラーに比べ遙かに少ないのには、民謡というスタイルでは、なかなか表現が難しかったのかもしれない。ただ、音楽というと西洋音楽だけのように捉えがちであるけれども、そうではなくて日本の伝統音楽には、いまの音楽、今日われわれの音楽が失ってきた、ある種の力があるのではないかと思うのである。だからといって、私たちはただちに邦楽器を使って、そのまま邦楽のスタイルで演奏することは出来ないわけで、西洋文明の動きにつれて、そういうネイティブな多くの音楽があまり聴かれなくなり、つまり近代化というものが捨てていく、操作のようなものを行ってきたようにも思うのである。
 
作品としての重要性

  こうして調べてくると、日本の作曲界で、広島の原爆をモチーフにした数多くの作品が発表されていることに改めて驚かされる。我々「ヒロシマと音楽」委員会の収集にあたっては、様々な要件があったが、その中の一つに、芸術作品としても優れているものを発掘するといった点は、かなり大切なウェイトを占めていた。その意味では、特に終戦直後から再開された我が国の作曲界の活動は、重要な役を担っていたと言えるであろう。そのことは作曲の技法として、音楽学校に在籍したか否かは別として、ある意味、アカデミックな作曲教育を受けた人々によって成されてきたと言えるのである。戦後の日本に於ける西洋音楽史などを述べていると、より複雑に難しくなるのであるが、やはりはっきりとしているのは、当時のいわゆる前衛作曲家たちの作品による邦楽器の復帰として、より顕著に表れている点である。もちろん、邦楽器のための現代作品そのものは、戦前から宮城道雄、中能島欣一らによって行われていたし、その流れを汲む作品は、戦後も数多く作曲されてはいたようであるが、西洋音楽を学んだ作曲家たちによる、邦楽器への果敢なアプローチが行われたことは大きな意味があったのである。ただ、この邦楽器は、西洋音楽を学んだ作曲家にはなかなか手強かったに違いないし、また、とりわけ尺八には多くの作曲家が挑戦していったのは非常に興味深いことである。 
  いわゆる邦楽器を使用して最初に脚光を浴びたのは、大木正夫の交響曲第五番《ヒロシマ》であった。それまでにも、原爆のドキュメンタリー映画の伴奏音楽を書いていたが、続いて峠三吉の『原爆の詩集』による混声合唱とソプラノ、アルト、テノール、バスの四重唱を伴うグランドカンタータ《人間をかえせ》を出している。さらにバリトン独唱、児童合唱、混声合唱を伴うグランドカンタータ、《人間をかえせ》の第二部を表発している。そしてまた、〈わだつみの声〉を書いている。これらの中での頂点は、なんと言っても《人間をかえせ》の第一部であった。技法の基本は西洋ロマン派音楽にあったが、その中で、歌のパートには日本語独自の語り口や邦楽の節回しも積極的に導入された難曲である。 合唱の扱い方が、専門家の間では必ずしも評価は良くなかったようであるが、第二章の〈仮繃帯所〉、第三章の〈眼〉、そして第四章の〈小さい子〉は、どれも素晴らしい出来映えである。
  いまは、これらの日本の音楽に更に西洋からの影響が積み重なって、かなり分厚い層を作り上げている。むしろ、西洋音楽の存在があまりにも大きく我々の意識を占めてしまい、そのほかのものを忘れてしまいがちであると言えるのかもしれない。現在の我々にはもはや、外来か固有か、新しいか古いかといったことを越えて、全て自分たちの土壌である、日本の伝統音楽あるいは、邦楽とよばれている音楽がたくさんあることを忘れてはならないのである。そしてまた、そこに現れている感性は、脈々と我々の心の中に脈打っているような気がするのである。

音楽のメッセージは、最も適した環境で語られるべき
 
  広島の原爆を扱った作品で私の知らない、そして聞き漏らしている作品が他にも数多くあるが、広島に限らず戦争を憎しみ、平和への祈り込めた作品となると、もう枚挙にいとまがないのである。資料収集と同時進行で開催された、収集した作品を披露するコンサートで、演奏する機会を幾度かもてたことは非常に貴重な経験であった。特にこのコンサートが始まって以来、目標の差はありながらも、ヒロシマの音楽を広島の皆さんに集中的に、また活発に訴えていこうとする意図をもった演奏会が、たくさん開かれるようになったことに気づくのである。ひょっとして、わたしたちのこの仕事が刺激になっていたのだとすれば、これもまた、とてもうれしくそして、意味のあることであろう。もしかすると、私の演奏は曲を真に理解するまでには程遠いものがあったかもしれないが、コンサートを通して知り合えた、他の演奏家の方々との練習を通じ、ヒロシマの真の平和を理解するための演奏を、積極的に展開出来たことは嬉しい限りであった。こうした人的な広がり、そしてまた、テーマの浸透はとりもなおさず、「広島の平和への願い」の広がりにつながっていくはずである。そしてまた、作曲家達が作品に刻んだ平和の願いへの刻印は、演奏会の度ごとにみがかれて、音楽芸術としての普遍的な価値をも増していくものと信じている。
 
おわりに

  ひょっとしたら、世界の危機的状況がそこまで迫っているかも知れないと、ふと思う瞬間が誰しも一度はあるのではないだろうか。私たちは今あらためて現代の日本、そして現代の日本の構造を考えざるを得ないのではないだろうか。今日、色々な情報が浸透する中で表現する者、とりわけ音楽家が、今の時代に自分自身を見つめていくことは非常に厳しいことだと感じる。しかしそれをうまく避けて通っても、なんとか生きていけるような、そんな状態が今の日本にはあるような気がするのである。
  社会的には、世界的な核の問題にしても、それがどのように危機なのか、どのように危険なのか、ということを根本的に感じ取ることが、じつは個人的には非常に難しいのが事実であろう。核兵器も、ヨーロッパ的知性とも言えるものが開発したのであるが、それに対して完全に人間的な償いはもとより、乗り越えていく手だてもないままに時は過ぎているのである。
  音楽がどのように役立つのか考えてみた。人間は、今や音を操って生きている。そして、われわれは音楽を共有している。その共有するものとしての音楽を明確にすること、そして、それを通じて作曲家は作品を書いているのである。音楽を明確にするということは、その音楽を使う人間の世界観を明確にすることであり、すなわち現代社会に生きる個人としての自分を明確にすることなのである。その行為の積み重ねが、将来に渡って次第に意味を重くしていくのではないであろうか。「ヒロシマと音楽」では、数多くの作曲家とその作品に触れることができた。しかも広島に関わる曲の中には、作った人々の強いエネルギーを感じないわけにはいかないのである。勿論、それらの演奏に関わった人々、そしてその演奏を聴いた人々、そしてこんな風に後から色々な形で関わった人たち、その数は到底計り知れないのである。そして、ここで改めてヒロシマについて真剣に考える時間がもてたことは、非常に貴重な経験であった。
  私たちは、平和を訴えていく手を休めるわけにはいかない。広島や長崎の苦しみを知りつつも、今もなお、世界各地では武力衝突、民族紛争、内戦が途絶えていないのである。また、各国の核実験など、は当然核兵器拡散への引き金となっている。今われわれに出来ることは、ヒロシマを思って作られた作品を大切に残しながら、さらにまた広く音楽を通して平和を訴え続けていくこと、そして人から人へと戦争の悲惨さを語り継いでいくことこそ、平和へつながる大切な行為だと考える。音楽を通じて民族や国家間の相互理解、そして世界の人々との真のふれあい、そして心の通う国際交流が世界の平和へつながると信じているのである。

(濵本恵康・広島大学大学院助教授)

ヒロシマと音楽

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