本データベースでは、作品に関する情報が少なかったり、あるいは該当する項目がなかったりするなどした作品群を「その他」の項目に当てはめ分類している。その多くは、作者がアマチュアであったり日本ではマイナーな海外のアーティストであったりするために、公の場での演奏記録や公刊された楽譜などがなく、作品に関する情報がほとんど得られなかったものである。こうした作品はたいていの場合、第三者による寄贈や情報の提供によってその存在が明らかとなり、本データベースに収められることとなった。つまり、「その他」の項目は「種々雑多の寄せ集め項目」とも言える。しかし、これらの作品群は興味深い事実を我々に投げかけてくれる。それは、ヒロシマがプロの作曲家や作詞家の手によってのみならず、アマチュアによっても紡ぎ出され、歌い継がれているという事実である。しかも、日本においてばかりではない。世界の様々な地域の人々がヒロシマに関心を寄せ、そして新しい原爆音楽を生み出しているのである。よってここでは、データベースに収められた作品をもとに、ヒロシマが草の根的に、かつ世界規模で歌い継がれている事実を紹介したい。なお、ここで触れる作品の中には、プロの手によるものや、すでに特定の項目に分類されているものもあるが、必要に応じて本稿の中でともに紹介したい。
市民によってつくられるヒロシマ
市民によってつくられるヒロシマの音楽として最も重要な部分を占めるのは、市民公募によってつくられたヒロシマの音楽である。被爆直後から、官民を問わず様々な機関がヒロシマや平和などをテーマとする音楽作品の募集を市民に向けて行ってきた。例えば、被爆の翌年にはすでに地元の新聞社がこうした公募を行っている(注1)。また、1974年からは20年にわたって地元のテレビ局が平和音楽祭を開催したが、ここではほぼ毎年、一般公募した歌詞にプロの作曲家が音楽をつけることによって新しい作品が生み出されている(注2)。こうした市民公募は、被爆から半世紀を経た後も行われている。以下、被爆50周年以降に行われた二つの公募について紹介しよう。
まず、1995年に行われたピース・ワールド・イン・広島 ’95について触れたい。この事業は、ユネスコ設立50周年記念事業の一貫として広島市とユネスコが共同で開催したものである。国内外に向けて新しい「平和讃歌」を公募し、その結果、800点余りの作品を集めた。そのうち入選したのは6作品で、グランプリに輝いたのは、レバノンの小学校教師2人によって作られた〈平和の太陽〉であった。この作品には、祖国の内戦に苦しむ作者の平和への希求がこめられており、あらゆる戦争を排し、世界の平和を願う気持ちがどのような国の人々の共感をも誘うことが評価されたのであろう。その後、〈平和の太陽〉は作曲家の池辺晋一郎によって編曲されるとともに楽譜も出版され(注3)、平和祈念式典をはじめ様々な機会で現在も歌われている(楽譜を巻末に掲載)。なお、入選作品の概要は、次頁の表一のとおりである。
次に、広島市が単独で行った事業についてみてみよう。広島市は、2000年~2001年記念事業として「広島の歌」を制作することを企画し、公募した。国内外からの応募数は915点にのぼったが、グランプリに輝いたのは9歳の広島市在住の小学生の作品〈アオギリのうた〉であった(楽譜を巻末に掲載)(注4)。この作品を含めて計11曲が入選し、『アオギリのうた』と題する「広島の歌」入選作品集において2003年に公刊されている(いずれも二部合唱、ピアノ伴奏譜付。CDも別売されている)。入選作品の概要は、表二のとおりである。
表一. 「ピース・ワールド・イン・広島 ’95」入選作品一覧
グランプリ | 平和の太陽 | 作詞 ワファ・マハメッド(訳 原正幸) 作曲 マヘル・ムハディン・メゼール |
優秀作品 | 青い空が好きだ | 作詞・作曲 青木良子 |
優秀作品 | 二度と争わない | 作詞 デトレブ・リンデ 作曲 クリストフィー・テボー |
優秀作品 | 世界平和へ向かって | 作詞・作曲 ミカエラ・フレデリック |
優秀作品 | 平和を求めて | 作詞・作曲 コンスタンス・M・チナンダ |
優秀作品 | 国境を越えて | 作詞・作曲 マリア・テレサ・R・バレンシア |
表二. 広島市2000年~2001年記念事業「広島の歌」入選作品一覧
グランプリ | アオギリのうた | 作詞・作曲 森光七彩 |
市民賞 | ねがい | 作詞・作曲 伊藤しげる |
制作委員賞 | Peace In The World | 作詞・作曲 Lynel K. Bright |
優秀賞 | 夢の記憶 | 作詞・作曲 木下純 |
優秀賞 | うまれた | 作詞 はらみちを 作曲 藤井和男 |
優秀賞 | 海風 | 作詞・作曲 竹下勉/td> |
優秀賞 | Mother -願いをこめて- | 作詞・作曲 明石敬子/td> |
優秀賞 | 太陽があるかぎり | 作詞 三宅立美 作曲 菅野和恵 |
優秀賞 | やさしさのある風景 | 作詞・作曲 木下純/td> |
優秀賞 | あるがままの風景 | 作詞 定森義雄 作曲 高田耕至 |
優秀賞 | 夾竹桃の子守歌 | 作詞 石井みちこ 作曲 高田耕至 |
このように、二つの市民公募への応募作品だけでも1800点近くにのぼっていることがわかる。もちろん、被爆の翌年に行われた公募では、全国から12000通余りの応募があった(注1参照)ことを考えると、この数ははるかに少ない。しかし、被爆から半世紀を過ぎて、ヒロシマを「音楽」によって語り継ぐ活動にこれだけの数が参加した意味は大きい。
さらに、「公募」という外部からの呼びかけに応じてではなく、自発的にヒロシマを音楽に託した市民も数多くいる。例えば、東京で活動するアマチュアのロックバンド「レイキャビック」は、〈HIROSHIMA CRISIS 2004~ロックによる祈り~〉という作品を作り、毎年8月にライブで歌う(注5)。また、福岡のアマチュア演奏家は、被爆瓦を使って作った横笛で自らが創作した被爆者の鎮魂歌〈小倉・長崎の子守歌〉を地元の音楽祭で披露した(注6)。この他、プロの手を借りている例も含めれば、原爆に関わる音楽を市民が作り出している事例は枚挙にいとまがないのである。
このように、戦後60年にわたり、ヒロシマの音楽は市民によってもつくられてきた。ただ、残念なことに、こうした音楽に我々が接することができるのはごく稀である。行政の公募によって作り出された音楽でさえ、ほとんど世に知られないまま埋もれてしまっている。つまり、先に触れたピース・ワールド・イン・広島 ’95の入選作品では、筆者の知る限り、楽譜として出版されているのはグランプリ作品〈平和の太陽〉のみである。入賞者6名のうち日本人は1名だけということから、歌詞の言語の問題もあると思われるが、戦後50周年の節目に創作されたこれらの優れた作品が日の目を見ないのは非常に残念なことである。先の広島市2000年~2001年記念事業と同様に、入選作品全てが刊行されることを期待したい。
先の「ピース・ワールド・イン・広島 ’95」では、入選作6作品のうち5作品までが海外からの応募作品であった。入選作品のみならず、この公募では海外からの応募作品が非常に多かったことは心に留める必要がある。もちろん、その大きな理由の一つは、この事業がユネスコとの共催事業であり、海外への呼びかけが活発に行われたためであろう。しかし、データベースを見ると、この公募以外でもヒロシマが海外で盛んに歌い継がれている様子がわかる。これらの作品の多くは、広島市や広島平和文化センター・広島平和記念資料館に楽譜や音源の形で寄贈されたもので、広島・長崎、原爆や反核などをテーマとしている作品である。例えば、ロシアの平和活動団体によって寄贈された〈ヒロシマ・ナガサキ〉や、セーシェル共和国代表によって1992年に寄贈された〈SEGA’92(平和の歌)〉、スウェーデンの平和団体「エノラ・デイ」が自主制作した音楽テープなどがある。その他、イギリス、カナダ、ポーランドのアマチュア音楽家が同様に、ヒロシマ・ナガサキや核に関わる音楽作品を寄贈している。こうした寄贈は被爆50周年の1995年に最も多い。
アマチュアばかりではない。プロとして活動する音楽家たちが作った原爆音楽作品の寄贈もある。例えば、チェコの作曲家、ヴァーツラヴ・リードルによる歌曲〈ヒロシマからの証人〉、アメリカのフォーク歌手フレッド・スモールが歌う〈Cranes over Hiroshima〉、フランスのシャンソン歌手ミッシェル・ジョナスのアルバム《Unis Vers L’uni》、イタリアのフルート奏者が被爆50年に演奏した〈Hiroshima(6. 8. 1945)〉などである。なかには海外でヒットした作品もある。つまり、インドネシアの社会派ポップス・グループBIMBOが歌った〈無数の広島〉は、1984年にインドネシアで大ヒットした(注7)。この他、寄贈ではないが、グアテマラの指揮者ホルヘ・サルミエントスが、丸木俊による絵本「ひろしまのピカ」をもとに作曲した交響曲〈ひろしまのピカ〉などのように、海外で新しいヒロシマの音楽が生まれている例は数多くある。このように、世界の様々な地域でヒロシマ・ナガサキや反核の音楽が歌い継がれている様子がわかるのである。
「歌い継がれるヒロシマ」が意味するもの
このように、被爆から半世紀を経てもなお、ヒロシマの音楽が市民によってつくられ、また海外でも歌い継がれている理由は、依然として止むことのない戦争や核実験を背景に、核戦争への危惧や不安が取り除かれないためであろう。例えば、先に紹介したBIMBOの〈無数の広島〉では、「たくさんの無数の広島が見える」というフレーズが何度も繰り返される。つまり、核をはじめとする大量殺戮兵器によって世界が廃墟と化すことへの不安と恐怖が、この作品から伝わってくるのである。ただし、曲調はポップで明るく、また歌詞は全て日本語である。そのため、現地の人々は当初、この作品が、「第三、第四の広島」の出現の可能性を警告する非常に深刻な内容の曲であることに気付かないであろう。いやむしろ、だからこそあえて日本語や明るい曲調を用いたのかもしれない。つまり、その意味の深刻さに何も気付かない人々が陽気にうたうという構図を示すことによって、核の脅威が人々の気付かぬ間に背後に忍び寄っている事実を訴えたかったのではないだろうか。
いずれにせよ、被爆後半世紀を経て、人々がヒロシマを音楽に託す意味、またヒロシマの音楽が人々に投げかける意味も徐々に変化しつつあると思われる。被爆当初は、当然ながら原爆投下に対する怒りや憎しみ、また核が人類にもたらした破滅と絶望の嘆きを音楽の中で表現するものが大半であった。タイトル自体に、「怒り」や「憎しみ」という言葉や「~を許さない」、「~を忘れまい」といった文言が含まれ、曲の中心テーマがまさに怒りや憎しみであったことがわかる。しかしながら、30年、40年と被爆から年月が経つにつれて徐々に、こうした怒りや憎しみのほかに、ヒロシマに希望と平和を見いだす内容が増えてくる。恐らくそれは、広島が、50年は草木が生えないと言われながらも見事に再生を果たしたことによるのだろう。さらに、その後新たな戦禍を招いていないこともあり、「平和の象徴化」が進んだものとみられる。例えは、1975年に広島でコンサートを行ったハービー・ハンコックは、「被爆から30年、原爆に傷つきながらも生き生きと立ち直ったヒロシマの街の表情に心打たれた。」(注8)と述べている。彼は、公演終了後一晩で〈平和の町のために〉を書き上げ、翌日広島市に寄贈した。この作品同様、人類史上例を見ないほどの惨禍に苦しみあえいだ街の復興に驚嘆し、希望と平和の象徴としてのヒロシマを表現した作品は幾つもある。とりわけ80年代以降にこうした作品が増え、そのテーマの中に「平和」や「希望」を掲げる作品が目立つようになるのである。
こうして、「怒り」や「憎しみ」の思いとともに歌われていたヒロシマは、次第に「平和」や「希望」への祈りの中で歌われるようになった。しかし、そればかりではない。ますます加速する核開発や環境破壊など、人類に破滅をもたらしかねない様々な問題を前に、ヒロシマを音楽に託す意味、ヒロシマの音楽が投げかける意味は、さらに多様な広がりを見せ始めている。1990年の広島原爆投下45周年祈念日にイタリアで開かれたアマチュア合唱祭では、「反核、平和」とともに「地球汚染防止」もスローガンとして掲げられた(注9)。世界各国から5000人を集めたこの音楽祭が象徴するように、もはや「ヒロシマの音楽」は、1945年8月6日に落とされた一つの爆弾による、人類史上稀にみる惨劇の表象だけにはとどまらなくなったといえるのである。
合唱曲《原爆小景》の完成に半世紀近くを費やし、現在も毎年8月にその演奏を行っている作曲家の林光は、次のように述べる。「音楽は、『核』にたいして物理的には無力であるが、人びとの祈りとねがいを代弁し、行動へと誘うくらいのちからはあるのだ。」(注10)この言葉に代表されるように、ヒロシマを音楽に託す人、託してきた人びとの多くは、音楽に「人びとの祈りとねがいを代弁する力がある」ことを信じてきた。被爆から半世紀以上が経過し、ヒロシマの音楽が代弁する祈りやねがいは、今後ますます多様化していくことであろう。
(敬称略)
(注1) 被爆直後に行われた公募の詳細については、前掲の原田論文「ヒロシマの音楽 その歴史的展望」を参照されたい。
(注2) 詳しくは、前掲の千葉論文「ヒロシマの音楽を生み出した現場と作品(主として歌曲)」を参照されたい。
(注3) 『池辺晋一郎合唱曲集2「平和」』音楽センター、2002年。
(注4) この作品については、拙稿「平和教育の中での原爆音楽」で紹介しているため、そちらも参照されたい。
(注5) 朝日新聞1995年7月26日記事より。
(注6) 朝日新聞1991年10月6日記事より。
(注7) この事実は、インドネシアの週刊誌TEMPOの当時の東京特派員によって寄せられた情報とテープから明らかになった。
(注8) 中国新聞1975年6月27日記事より。
(注9) 朝日新聞1990年2月5日記事より。
(注10) 林光『生命の木、空へ』第三版、京都音楽センター、1995年より。