音楽はいかにヒロシマを伝えてきたか

原田 宏司

原爆音楽とは

  人間は何らかの不幸に遭遇したとき、これまでにもさまざまな音楽を生み出してきた。不幸の内容は天災から人災にいたるまで多種多様で、個々の不幸に対して単発的に音楽が創られることも珍しくない。最も一般的な形では、人間の宿命ともいうべき死を弔う音楽である。死者を弔う音楽は世界中に各種存在するが、大抵の場合、宗教や信仰と深い関わりを持っている。とりわけ西洋では、早くからレクイエムとして音楽史の中に登場し、芸術作品としての一つのジャンルを形成してきた。
  この度、「ヒロシマと音楽」実行委員会に所属して、過去の原爆音楽に関する資料を掘り起こし、データベース化する作業に従事する中で、初めてヒロシマに関わる音楽、いわゆる原爆音楽の全体像をおぼろげながら把握できるようになった。それによれば、鎮魂と追悼、つまりレクイエムという祈りの意味合いで作られた作品のほかに、原爆の悲惨さや恐怖を訴える作品、反戦・反核を叫ぶ作品、さらには人間の尊厳から人間賛歌にいたるまで、多種多様な意味合いを持つ音楽が存在することに気づくのである。しかも、「ヒロシマ」というキーワードで世界各国の人々が、二千曲にも及ぶ作品を残してきたという事実は、洋の東西を見渡しても前例を見出すことはできない。まさに音楽の中で一つのジャンルを形成しつつあるといっても過言ではないだろう。もちろん、世界中のどんなに大きな音楽事典を開いても、原爆音楽、またはカタストロフィと音楽という項目は見当たらない。しかし、原爆をテーマにしてこれだけ多くの音楽が書かれているという現実は、もはや項目を起こすに十分値するものと思われる。
  ところで、私が「原爆音楽」という言葉を初めて目にしたのは、故芝田進午氏(元広島大学教授)らが編集した『反核・日本の音楽』という著書に遭遇したときであった。当初は言葉の使用にいささかためらいもあったが、データベース作成に際して共通理解していた内容、①広島の原爆被害をテーマとする曲 ②「ノーモア・ヒロシマ」の祈り・願いをテーマとする曲 ③核兵器のない平和な社会の希求をテーマとする曲 ④広く「ヒロシマ」をテーマにする曲 の各分野を包括し、特定の領域を適切に示す簡便な用語として次第に受けとめるようになった。しかし、音楽の場合、この領域の研究はほとんど進展しておらず、原爆音楽の概念化すら明らかでない現状である。原爆音楽の先駆的研究者であり、原爆作品の他の領域にも詳しい芝田氏の場合、原爆音楽は原爆文化の下位概念として用いられており、そこに列挙された特徴がその内容を具現しているといってもよい。つまり、第一にレクイエムという性格がその多くに共通しており、それに加えて、第二にその悲劇をもたらした責任者にたいする憎しみや怒りも表現された音楽であること、また、第三に、それらの音楽は、原爆を告発するすぐれた詩と結びついていること、さらに第四に大衆運動の中で普及したことから大衆性をもっており、第五にその中には人間の尊厳が一貫して歌われている、というものである。これらを要約して氏は次のように述べている。「原爆音楽の多くは、あの地獄の実相を明らかにし、犯罪者を告発し、死者を悼むレクイエムとしてはじまったし、また、レクイエムでありつづけています。同時に、その多くの曲が、最後には、生の意味を訴え、しばしば生の讃歌にもなっています。(中略)原爆音楽は、そのようなものとして、たんに過去を告発した歌であるにとどまらず、現代に警告し、さらに未来をうたい、人類が生きのこるための動員をよびかけた音楽としても、きわめて大きな意味をもつのではないでしょうか。」(注1) 
  ヒロシマをテーマにした作品は、当然のことながら音楽にとどまるものではない。文学、絵画、彫刻、映画、アニメなど多領域にわたっている。最近ではこれらの領域を総括して、前述のとおり原爆文化という名称さえ使われている。したがって、芝田氏に依拠して、原爆音楽は原爆文化の一端を担っていると解してもよいだろう。しかし、音楽が他の領域と明らかに異なる点は、音楽が持つ再現芸術としての特質である。つまり、音楽は実際に鳴り響く音になって初めて受け手に享受されるのである。したがって、いかに優れた作品が書かれようとも、演奏という行為を介さない限り、作品にこめられたメッセージの伝達は一般には成立しない。これは内外から寄せられた寄贈作品によく見られるケースであるが、演奏の機会に浴しないまま眠り続けている作品も珍しくない。それでは、そのような作品を次々に演奏する機会を設ければいいということになるが、それがそれほどたやすく解決される問題ではない。音楽のジャンルは洋の東西にわたり、西洋のクラシックから邦楽にいたるまで多種多様である。演奏形態も、少人数を対象にしたものから集団による合唱やオーケストラにいたるものまであって、いくら好事家であっても簡単に手が出せるものではない。また、これらの作品は往々にしてヒットするような性格のものではなく、採算上でも行き詰ってしまうケースが少なくない。「ヒロシマと音楽」実行委員会では、データベース作成の事業と並んで、これまで演奏されたことのない作品の音源化をめざして数年間コンサートを開催してきたが、これとてもごく一部の作品の音源化に寄与したにすぎないのである。
  このようにしてみると、原爆音楽の実態を正確に把握することはきわめて困難としか言いようがない。演奏されて初めて作品の真価が問われるとすれば、お蔵入りしたまま眠り続けている多くの作品は、どう評価すればよいのであろうか。このような不透明な現実のなかで原爆音楽を語るとすれば、創作、そして初演というレヴェルだけでなく、その後の再演をも含めた多様な音楽活動をも視野に入れて考察する必要があると思われる。それらがどのような意図をもって創られたかと同時に、どのような場で演奏され、どのような影響力をもったかが問われなければならないだろう。ここでは、それらの社会における実態を通して、原爆音楽が果たしてきた役割を可能な限り追ってみることにしたい。
 
 
原爆音楽の分類

  原爆音楽には、果たしてどのようなジャンルの作品があり、それらの分布はどうなっているのだろうか。「ヒロシマと音楽」のデータベースでは、あらゆるジャンルの作品を収集の対象にしたが、一応次の6つのジャンルに分けて整理を行った。ポピュラー音楽、歌謡曲、クラシック音楽、邦楽、民謡、その他、である。これらはあくまでも目安として一般的通念にしたがった範囲内の分類であり、厳密に検討したものではない。「その他」とは、創作や初演の記録のみ残されているものの、楽譜や音源がないためにジャンルの判別が困難なものである。言い換えれば作業上の「その他」で、それが約半数を占めている。今回「ヒロシマと音楽」データベースに登録された1867曲の残り半数をそれぞれのジャンルに分けて見ると、やはりクラシック音楽のジャンルが最も多く、34パーセントを占めている。次いで歌謡曲が8パーセント、ポピュラー音楽が4パーセント、そして邦楽が1.6パーセント、民謡に至っては0.6パーセントに過ぎない。「その他」の資料が整えば数値はかなり変動することも予想されるが、現在の割合はおよその傾向を示していると言ってもよいだろう。
  音楽には、標題音楽と絶対音楽という分類概念がある。これは西洋クラシック音楽の分野で生まれた概念であるが、それ以外の分野でも洋の東西を問わず幅広く用いることが可能である。標題音楽とは、音楽が具体的な内容を示す何らかの標題や歌詞をともなうもので、例えば、ベートーヴェンの交響曲「田園」のように、作曲者自身が定めた標題を持っていたり、歌曲や合唱曲のように歌詞を伴っているものは最もわかりやすい標題音楽ということができる。逆に絶対音楽とは、ソナタとか交響曲第○番というように、内容を具体的に示す明確なよりどころがない音楽をさしている。そうした二元論的立場から原爆音楽を整理してみると、約99%の音楽が標題音楽に属している。作曲者が第三者に何かを訴える場合、やはり抽象的な音のメッセージだけではなく、よりリアルに伝わる言葉を介しているケースが圧倒的に多くみられる。原爆音楽の場合、標題音楽の中でも、声楽曲が約8割で、器楽曲が残りの2割程度を占めている。
  一方、純粋な絶対音楽は1パーセント程度、むしろ例外に近い状態で見つけることができる。弦楽四重奏曲第○番というようなケースがそうで、もしも作品が一人歩きを始めたら、第三者には全く見分けがつかなくなってしまう運命にあるといってもよい。現段階で判別できるのは、かろうじて作曲者のコメントがプログラム等に記載されているからにすぎないのである。
  次に、原爆音楽はどのような演奏形態で書かれているのだろうか。まず声楽曲に関しては、ジャンルを問わず伴奏を伴う独唱曲、合唱曲が最も多く、僅かながらア・カペッラの曲も存在する。器楽曲に関しては、規模の大きな管弦楽曲、少人数からなる室内楽、そして個々の楽器による独奏曲などである。楽器に関しては、西洋の楽器のほかに、箏や尺八のような和楽器や、ギター、オルガン、オカリナ、そして電気楽器まで取り上げられている。
 
 
原爆音楽の軌跡

  2005年、広島は被爆から60年を迎えた。原爆文化の領域では、慣例的な時代区分はまだ成立していないので、その間の原爆音楽の動向を、およそ10年単位で6つの時期に分けて振り返って見ることにしたい。その前後に大きな社会的な変動があれば、その年で区分する。

第一期(1945~51)

  被爆直後から1951年までを第1期とする。何故なら52年に対日講和条約が発効して、日本は一応独立することになり、政治的に一つの節目を迎えるからである。それまでの占領期間中、プレスコードの名の下に、アメリカ占領軍は原爆の被害を日本国民にできるだけ知らせないように努めたと言われている。「原爆」は禁句だったとも言われている。したがって、音を介する表現分野にも大きな拘束力を持ったであろうことは想像に難くない。そのような中、1945年の11月に、長崎で被爆した木野普見雄が、早くも〈独り息づく〉という歌曲を作曲している。この曲が、今のところ広島と長崎を通して初めての原爆音楽といえるだろう。木野氏はその後も精力的に長崎をテーマにした曲を15曲ほど作曲している。
  翌46年からは、広島市や地元の報道機関などが中心となって、いち早く復興や平和をテーマにした歌詞の募集を始めている。広島市は当選者2人(藤井啓市、吉井清雄)による「復興の歌」の作曲を専門家(紙恭輔、渡邉弥蔵)に依頼し、市民の意欲高揚に努めている。地元の中国新聞社が被爆1周年を記念して募集した「歌謡ひろしま」は、復興の意欲に燃える老若男女の市民に愛唱されることを願って、8月9日付の同紙に楽譜付きで発表された(山本紀代子作詞、古関裕而作曲)。また、中国新聞社と日本文化平和協会の主催による「平和の歌」懸賞募集には、全国各地から一万二千通余りの応募があり、一等入選作「空はばら色明け渡る」(丸山静作詞)が、48年8月、「平和の歌発表音楽会」で華やかに披露されている。49年には、広島県教育委員会も、「広島復興音頭」を選定している。これらの歌が当時どれだけ人びとの間で歌われたかは定かではないが、音楽が窮地にあえぐ市民の心を少なからず潤し、力づけたことには間違いないだろう。
  一方、被爆翌年の夏には、供養盆踊り大会や英豪軍軍楽隊による激励と慰安の演奏会など開かれているが、47年からは8月6日に平和祭の式典が挙行されている。47年には広島平和祭協会が設立され、同協会が公募した「平和の歌」の歌詞の中から重園贅雄の入選が決まり、その作曲を山本秀が担当した。〈平和の歌〉は同年の平和祭式典の中で市内男女生徒により合唱されたが、その後今日に至るまで、広島を代表する歌として人々の間に広く歌い継がれている。48年の式典では〈ヒロシマの歌〉(大木惇夫作詞、乗松昭博作曲)が発表され、49年には、〈ヒロシマに寄する歌〉(エドモンド・ブランデン作詞、寿岳文章訳、山田耕筰作曲)と、〈広島平和都市の歌〉(大木惇夫作詞、山田耕筰作曲)がいずれも発表された。これらの歌は、広島平和祭協会が主催する「平和音楽会」でも演奏されている。焦土と化した広島で音楽が早くも産声をあげた背景には、当時の浜井信三広島市長の並々ならぬ努力があったことは余り知られていない。浜井市長は、48年の平和祭では騒々しい行事は一切取りやめ、文化に恵まれない市民への贈り物として、音楽会と美術展の2本に絞って行事を企画したという。これらの活動が刺激となって、次第に広島の地に文化活動が根づいていくことになる。
 この第1期の6年間には、約20曲余りの原爆音楽が個人の手によって書かれているが、中でも作曲家として名高い山田耕筰が広島に想いをよせ、5曲も作品を残しているのが注目される。その中の一曲〈原子爆弾に寄せる譜〉は、早くも46年に作曲され、地元の葉室潔によりバレエに振付け発表された。
 原爆が日本を代表する音楽家、山田耕筰の心を捉えたものは何であったのか。『山田耕筰全集』を紐解いてみると、楽譜の合間に同氏のエッセイが挿入され、それらの作品の創作動機を知ることができる。(注2)
  「終戦の秋の暮れであった。私は中国から九州一円にわたる演奏の旅を続けた。その時、私は原爆に壊滅した二つの町をみた。それは地獄の絵図そのままの身の毛もよだつ風景であった。その強烈きわまる印象に激しくも撃たれた私は何とも言い表し得ぬ気に圧されて、3年の歳月をただ無為に過ごして来たのである。しかし私の胸に蒔かれた感銘の種は、知らぬ間に新しい創作の芽生えとなって私の心に蘇生した。(以下略)」
  46年6月27日付の中国新聞紙上には、「楽譜に躍る悪夢の再現」という見出しで、〈原子爆弾に寄せる譜〉を作曲した経緯が紹介されている。「いたましい犠牲者の音楽法要をするとともに、世界的文化都市として復興にあたっている市民に対する激励ともしたい。」という同氏の想いは、心あたたまる贈り物として広島市民の心に届いたに違いない。同じような想いは、詩人西条八十の胸中をも動かしたようで、51年2月9日付の同紙上には、広島の歌を作詞するため広島を訪れた同氏の意気込みが報じられている。
  この時期には、ほかに合唱曲〈遠き日の〉(原民喜作詞、団伊玖磨作曲)、交響詩〈広島〉(木下夕爾作詞、宮原禎次作曲)、などがあるが、いずれも悲惨な原爆体験を訴えるものである。後者の演奏を担当したのは広島放送管弦楽団であるが、広島放送合唱団とともに、地元のNHK広島中央放送局が果たした役割はきわめて大きい。

第2期(1952~53)

  講和条約が発効し、表現への制約も緩和されるにつれて、原爆被害の実相が次第に明らかになる時期である。この時期に入ると、これまでの原爆に対する間接的な怒りや悲しみの表現が、直接的な表現に一変していく。曲のタイトルを見ても、〈原爆を許すまじ〉〈ピカドンゆるすな、ヒロシマ忘れまい〉〈この声聞け〉〈父をかえせ、母をかえせ〉のように、怒りをあらわにした作品が増えてくる。このような声は、この時期の原水爆禁止運動の高揚と平行して、ますますトーンが高くなっていくのがわかる。音楽面ではわが国のうたごえ運動の台頭も無視することはできない。今では原爆音楽の代表作として知られ、歌われる機会も多い〈原爆を許すまじ〉(浅田石二作詞、木下航二作曲)は、そのような背景から生まれた歌である。作曲は54年となっているが、この年の3月にはビキニ被災事件があり、核兵器に反対する国民運動が大きく盛り上がった年である。この歌は同年の8月に広島市の本川小学校で催された平和運動全国協議会の席上で発表されたが、このような集会の度に歌われて、運動を発展させる大きな原動力にもなったのである。その後ワルシャワで開かれた「第5回世界青年平和友好祭」の国際文化コンクールの作曲部門で上位入賞を果たし、6カ国語にも翻訳されて、まさに「世界の歌」としてさらに拍車をかけることになった。これは歌の持つ心情と運動とが直接結びついた典型的な例といえるだろう。〈原爆を許すまじ〉は、後に外山雄三により、弦楽四重奏曲としても生まれ変わっている。
  音楽で広島の被災者たちを慰めたいという願いから、海外の音楽家たちもヒロシマに目を向け始めている。フィンランドのアルトーネンが自作の交響曲《広島》を指揮者の朝比奈隆に託したのがきっかけで、被爆10周年を迎えた55年、関西交響楽団により初演された。また、ソ連のピアニスト、セレブリヤコフは演奏旅行の途中広島に立ち寄り、自作の〈広島市民へ捧げる曲〉を披露している。一方、国内では、この時期に原爆音楽の大作が次々に生まれている。代表作に《交響曲ヒロシマ》《交響的幻想曲ヒロシマ》(大木正夫作曲)、〈未来にまで歌う歌〉(米田栄作作詞、市場幸介作曲)、〈原爆小景〉(原民喜作詞、林光作曲)、グランド・カンタータ《人間を帰せ》第一部・第二部(峠三吉作詞、大木正夫作曲)などがある。これらの作品には、原爆の悲惨さや怒り、悲しさを原爆詩に託してきわめてリアルに描いていく姿勢と、原爆というテーマを共通感情として一般化し、訴求力を高めていく姿勢を見ることができる。また、大木正夫のように、自らのライフワークとして、大衆の平和の歩みを音楽芸術に具現するような作曲家も現れた。

第3期(1964~76)

  この時期の話題は、何といってもポーランドの作曲家ペンデレツキが作曲した〈広島の犠牲者への哀歌〉で始まる。作曲は1960年とされているが、1964年12月1日、当時の浜井広島市長にメッセージとともに同曲のレコードが献呈されたことから、一躍話題となった。早速東京から音楽評論家を呼び、広島市民にはレコード・コンサートの形で紹介されている。今日では、現代音楽の古典ともいえる作風だが、当時の前衛的手法を駆使した半ば冷ややかな響きは、聴く側にかなりの戸惑いをもって迎えられたようだ。しかし、底流に潜む強烈な人間感情は概ね前向きに評価され、その後も原爆の脅威を象徴するヒロシマの作品として存在し続けている。
前の時期に開花したうたごえ運動はさらに盛り上がりをみせ、50年代の中頃から『うたごえ歌曲集』が相次いで現れてくるが、60年代に入ると、各地のうたごえ運動の中で原爆音楽が次々と作詞・作曲されるようになったことが特徴として挙げられる。65年には長崎うたごえセンターから〈原子野〉や組曲《長崎》が作られ、翌年には、東京うたごえによる作詞・作曲で〈広島から〉が発表されている。つまり、原水爆禁止運動の分裂にもかかわらず、新たな市民運動の広がりと高まりに中で、うたごえ運動と原爆音楽の創作活動が密接に結びついてきた時期といえる。
  こうした流れの中で1974年、広島テレビが企画した「広島平和音楽祭」(古賀政男実行委員長)が、平和をテーマにしてスタートした。当初出演者をめぐるトラブルもあったが、音楽祭には音楽のすべてのジャンルを含む当時第一線で活躍する出演者たちが集合し、人間愛、希望、よろこび、友情、連帯、平和などを歌うとあって、その企画力に大きな注目が集まった。第一回には、ペギー葉山、美空ひばり、上條恒彦、友竹正則、観世栄夫らが出演し、団伊玖磨の指揮する広島交響楽団が共演した。美空ひばりが歌った〈一本の鉛筆〉はここで生まれるが、この曲は以来今日まで静かなブームを巻き起こしている。この「平和音楽祭」は毎年開催され、94年の第20回まで続く。このシリーズから多くの原爆音楽にかかわる新作が生まれたことは特筆すべきだろう。また、シリーズものとしては、地元の広島交響楽団が「平和の夕べ」と称して慰霊のコンサートを始めたのもこの時期である(68年、第1回)。
  この時期の代表的作品として、芥川也寸志が大江健三郎の詩に作曲したオペラ《ヒロシマのオルフェ》(67年)、林光が原民喜の詩に作曲した《原爆小景》(三部作が完成しレコード化、73年)、森脇憲三作曲の組曲《ひろしま》(65年)、外山雄三作曲の交響曲《炎の歌》、森脇憲三作曲の男声合唱のためのレクイエム《碑》(70年)、早川正昭作曲の〈レクイエム・シャンティ〉(70年)などが挙げられる。オペラ《ヒロシマのオルフェ》はNHKテレビの委嘱作品で、60年の〈暗い鏡〉を改題改作したものである。被爆60周年にあたる2005年、広島出身の作曲家、細川俊夫が音楽監督を務め広島では初めて上演された。また、〈レクイエム・シャンティ〉は、歌詞を伴わない器楽曲であること、尺八という日本の伝統楽器を用いていること、などから海外でも大きな反響を呼び、今でも度々演奏される作品となっている。
この時期には、いくつかのシリーズものが企画され、多様な広がりと高まりの中、一定期間継続し、独自の展開をとげているのが注目される。

第4期(1977~85)

  この時期は、前の時期に分裂した原水爆禁止運動が再統一され、国連への核兵器禁止要請署名運動が始まった時期である。また、社会的には、被爆体験の国際化が指摘されているが、音楽の分野でもそのような傾向を顕著に見ることができる。例えば、英国の詩人、エドモンド・ブランデン(元オックスフォード大学教授)の「ヒロシマ1949年8月6日に寄せて」という詩を合唱曲にしてほしいという広島市からの要望にこたえて、英国の王室付作曲家マルコム・ウィリアムソンが作曲し、それを広島の児童合唱団が初演している。ブランデンは駐日英国大使館教育顧問として来日中、48年に広島を訪れ、目に焼きついた印象を詩に託し、同49年広島市に寄贈している。寿岳文章により「ヒロシマよりも誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」と翻訳されたこの詩は、すでに山田耕筰や地元エリザベト音楽大学のホセ・テホン元学長の手によっても作曲されている。テホン元学長の作品は、81年2月に広島を訪れたローマ法王ヨハネ・パウロ二世からの要請で実現したもので、同大学の定期演奏会で披露された。また、広島市に寄贈されたまま13年間眠り続けていたドイツの作曲家フォレストのオペラ《広島の花》が、地元の演奏家の力で初演されたり、イタリアの指揮者アバドが、ベルリオーズの《幻想交響曲》の録音に際して、終楽章に広島の式典で用いられる「平和の鐘」を使用したのも話題をまいたところである。米国の著名な指揮者バーンスタインが、被爆後40年にあたる85年、14カ国の音楽家、楽団員400名とともに広島を訪れ、自作の交響曲第三番《カディッシュ》や糀場富美子作曲の〈広島レクイエム〉などを演奏して、自らの音楽家としての信念を明確に示したことも忘れられない。同氏はアテネ、ブタペスト、ウィーンでも同様のコンサートを企画し、一連の旅を自ら「祈りの旅」と称している。
  さらにニューヨークでは、第2回国連軍縮特別総会を前にして、反核・軍縮を訴える音楽祭「日本の音楽の夕べ」が開催され、〈原爆を許すまじ〉を初めクラシック、ポピュラー、邦楽などの原爆音楽が演奏されている。ただし、そのとき報じられたアメリカ人が会場に少なすぎるという実態はどう捉えればよいのであろうか。軍縮総会に刺激され、自ら室内楽を結成して平和コンサートを開いたジュリアード音楽院教授のピアニスト、井上和子も自らの人脈を頼って、個人レヴェルで原爆音楽の紹介に努めている。このシリーズは後数回続くが、この会ではアメリカの作曲家デヴィッド・ローブの《琴とバイオリン、ピアノのための三曲》が初演された。そのほか、栗原貞子の詩に、ドイツ人のツィマーマンが曲をつけた〈ヒロシマというとき〉が広島で初演されたり、日本語の反核ソング〈無数のヒロシマ〉がインドネシアで流行したり、アメリカのフォーク歌手シャーリン・ゲッディスが作詞作曲した〈ヒロシマ〉〈二度と再び〉が披露されたりしている。これらは一様に国際的広がりの中で反戦、反核、平和を訴え、ヒロシマの心を世界に発信するねらいを持つ点で共通している。
  この時期にも新作が相次いで登場している。中でも大きな話題をまいたのは、オペラ《はだしのゲン》の広島・沖縄公演の成功である。中沢啓治原作、清水高範台本、保科 洋作曲による二場六幕のオペラは、被爆都市としての広島の印象を強くアピールすると同時に、子供から大人まで理解しやすい平易な内容で大きな成功をもたらした。これに続いて東京では、《おこりじぞう》がオペラ化され話題をよんでいる。
  そのほか注目すべき作品として、林光の《新原爆小景》、尾上和彦のオラトリオ《ヒロシマ》、本間雅夫の《八月の歌》シリーズ、などが挙げられる。尾上の作品は峠三吉、林の作品は、前シリーズ同様、原民喜の原爆詩に基づいている。
  地元広島の音楽活動としては、前の時期に始まった「広島平和音楽祭」が中央からポピュラー界、クラシック界の大物スターたちを呼んで順調に回を重ねている。毎回テーマを決め、一般から歌詞を公募して賞を贈るなど、企画も凝っており、多くの聴衆を魅了したのもうなずける。このシリーズから新作が次々と生まれ、後々歌い継がれているものも少なくない。故芝田進午を代表とする「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」もこの時期に始まっている。こちらの方は原爆音楽の系統的な紹介が大きな特徴で、ようやく原爆音楽に対する意義が明らかにされ、学究的な取り組みが始まったといってもよい。一方、東京では、芥川也寸志の呼びかけによる「反核・日本の音楽家たち」というコンサート・シリーズが始まっている。邦楽、クラシック、ポピュラーの分野にわたる幅広い原爆音楽が紹介されているが、広島でも「広島国際平和コンサート」という名称で開催された。

第5期(1986~1995)

  被爆40周年には内外で大きな音楽的催しが目立ったが、その後も国際化の傾向はますます加速する。前の時期と違う点は、被爆という問題が広島や長崎の特殊現象としてだけでなく、人類共通の問題として認識され始めたことである。その背景には、1986年のチェルノブイリ原発事故などがあって、より身近なところで生命の危険を再認識させられたことも否定できない。音楽でも、広島という壁を越えた幅広い国際的な広がりを見ることができる。93年には、ロシアからキリーロビッチが民族楽器バヤーンを携えて、広響の「平和コンサート」に登場した。協演した曲目はダニーロビッチが87年、原発事故と人間の闘いをテーマにして作曲した《シンフォニー・ロブスター》で、ヒロシマの願いをはっきりと確かめることのできる意義深いコンサートであったといえよう。佐々木貞子さんを悼む哀歌〈エレジー・サダコ〉がロシアと日本の合作で作られたのも興味深い。
この時期には、地元のオーケストラ広島交響楽団の活躍が目立っている。91年にはウィーン公演が実現し、中国地方唯一のプロ・オーケストラとして足場を確かなものにしている。翌年にはポーランドの作曲家ペンデレツキが来広し、広島交響楽団を相手に自作の〈ヒロシマの犠牲者への哀歌〉を指揮している。また、ナチスの犠牲になった少女を歌い一躍名をはせたポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキの交響曲第三番《悲歌のシンフォニー》の広島初演を果たしたのも広島交響楽団である。この広響定期にはチャイコフスキーの交響曲第三番《ポーランド》も演奏され、愛と平和をテーマにしたコンサートの締め括りに相応しいものであった。
  地元オーケストラの活動に象徴されるように、この時期の国際化では、広島の演奏団体の海外進出が目立っている。崇徳高校グリークラブは、米国、ニューヨーク市にあるカーネギーホールで公演を行い、峠三吉の詩による〈ヒロシマ〉などを演奏して、平和のメッセージを歌で伝える役割を果たした。
  この時期に広島を訪れた音楽家たちに、ヒロシマを意識した曲目や発言が相次いできたのも大きな特色である。フランスの代表的なシャンソン歌手ジャクリーヌ・ダノはレパートリーに〈ヒロシマ〉を入れているし、指揮者シノポリは、公演を前にして「音楽は文化であり、文化の創造というのは、人間が存在する理由について考え続けることだと思う」と述べている(中国新聞、88年10月1日)。
  この時期にもかなりの原爆作品が作曲されている。遠藤雅夫の合唱組曲《石の焔》、細川俊夫の《ヒロシマ・レクイエム》、林光の《生命の木、空へ》、フランス人フェリェ・ジョルダンの《レクイエム(嵐)》、地元からは小玉好行の《撫子》などがある。小玉好行の作品は、疎開先の子どもと親との手紙のやりとりで構成され、当時の状況を知る貴重なドキュメントとしての価値も持っている。

第6期(1996~2005) 

  この時期の活動として、手前味噌ではあるが、まず被爆50年を契機に始められた「ヒロシマと音楽」実行委員会の活動を挙げなくてはならないだろう。中国放送の支援を得て、学識経験者、広島市諸機関の関係者、中国放送のスタッフで構成された実行委員会は、二つの大きな目的を掲げることになった。ヒロシマに関わる音楽のデータベース化とそれらの音源化である。データベースの作成は、既存のリストをベースにして、多方面にわたる原爆音楽の掘り起こしを行い、作曲者や演奏者の手元で眠り続けている未登録のデータを収集し、順次リストアップしていく作業で、困難を極めるものであったが、2002年の実行委員会の解散時には約1800曲を登録することができた。一方の音源化の作業も、毎年コンサートを開催し、新旧のヒロシマに関わる音の収録を行ってきた。この委員会は、その後民間の有志による「ヒロシマと音楽」委員会に受け継がれ、音源化の仕事は終えることになったが、データベース化の作業は継続され、04年当初の念願でもあった広島市への寄贈が実現し、1867曲の資料が広島平和文化センターに引き渡された。これによりこれまでの仕事は一応終止符を打つことになった。「ヒロシマと音楽」のデータベースは、これまでも中国放送のホームページから検索することができたが、今後は広島市の「平和データベース」のホームページ上から容易に検索が可能となり、音源や楽譜の有無、所在等を確かめることができるようになった。これまで情報を手に入れにくかった一般の音楽愛好家や演奏家にとって朗報となるであろうし、適切なものは教材として検討することも可能となった。
  ところで、前の時期に確認された国際化の傾向はますます拡大すると同時に、市民レヴェルでの活動なども加わって、いっそう一般化、大衆化の傾向をみせていく。60周年を迎えた2005年の地元の新聞をめくってみても、米国(シアトル)、ドイツ(ベルリン)をはじめ、これまで見られなかったドミニカ共和国やウルグアイなどでもヒロシマの歌が響き渡っている。一方、広島では8月6日を中心に、大小さまざまなコンサートが催され、枚挙に暇がないほどである。出演層も子どもから大人まできわめて幅が広い。目に付くものを挙げてみると、「ヒロシマの響き~未来への追憶」(7月6日)、「被曝60周年を悼む コンチェルト スピリトゥアーレ」(7月16日)、「平和教育プロジェクト〈スレノディ〉演奏会」(マリー・シェファー作曲 7月30日)「慰霊の夕べコンサート」(8月5日)、PEACE MUSIC WORLD(8月5日)、「広島平和コンサート2005」(佐渡裕ほか8月6日)、「ヒロシマ60」(8月6日)、「南こうせつin世界平和祈念聖堂」(8月7日)、「林光・東混~八月のまつり」(8月6日)、「平和コンサート 6人のチェロの響き」(8月6日)、「広島観音高校音楽部OB合唱団祈念コンサート」(8月7日)、「ピカドン竹やぶ」(はらみちを作 8月7日)「No More War~愛の祈り」(高校生バンド8月14日)、「被爆60周年を祈念して~七つの川から七つの海へ」(9月19日)、「世界へおくる平和のメッセージ」(小沢征爾ほか 10月21日)、「日本のうたごえ祭典 in ひろしま」11月4日~6日)など。これらのコンサートで取り上げられる曲は、新・旧のいわゆる原爆音楽のほか、音楽史上の鎮魂や平和に因んだ名曲が選ばれている。これらの中で広島出身の作曲家、細川俊夫が音楽監督を務めた「ヒロシマの響き」では、芥川也寸志の《黒いオルフェ》(広島初演)と自作の《ヒロシマ・声なき声》(本邦初演)が演奏され注目された。作曲者による研ぎ澄まされた祈りのメッセージはもとより、広島交響楽団と地元の演奏陣の奮闘もあって、原爆作品の質の高さが証明されたといっても過言ではないだろう。「慰霊の夕べコンサート」では、ドイツの作曲家ウーヴェ・ロアマンの〈ヒロシマの原爆犠牲者に捧ぐ〉が世界初演された。佐渡裕が広島交響楽団と世界の若手演奏家で編成する管弦楽団を指揮した「広島平和コンサート2005」では、女優の吉永小百合のほかチェリストのマイスキーなど内外の有名演奏家が出演し、故バーンスタインの交響曲《カディッシュ》、〈広島平和の歌〉などを演奏した。この模様は放送メディアを通して全国に中継され、多くの人々の間で「ヒロシマと平和」というキーワードを共有することができたと思われる。同じことは「世界へおくる平和のメッセージ」でフォーレの《レクイエム》を指揮した小沢征爾のコンサートでも言うことができる。平和イベントと称するこのコンサートは早くからの宣伝効果もあってか、大会場のチケットがまたたくまに売り切れとなってしまった。小沢は言う。「われわれが死に絶える前に、薄れ行く原爆の記憶と平和の祈りをこれからの命に伝えたい」と。これらのコンサートは、有名人によるイベント的側面をもっているが、音楽によるメッセージは確実に聴衆の心を揺り動かしたはずである。このような話題性の多いコンサートのほかに、一貫してヒロシマにこだわり続け、原爆音楽活動の幹になっている作曲家や演奏団体も多様化しつつある。バンドによる平和ライブを試みる高校生は「自分たちのスタイルで多くの人に平和を訴えたい」と主張する。被爆60年の夏、ドイツで追悼演奏会の企画構成にかかわったペーター・ハウバーは、「音楽で人道的な心を開き言葉でメッセージの意図を伝える」と述べている。永井博士の著作から暗示を受けて「スレノディ」を作曲したカナダの作曲家、マリー・シェーファーは、60周年の記念日を前に広島を訪れ、「音楽を通じ、惨事を乗り越えて平和に生きることを祈りたい」と訴える。
 
 

おわりに

  音楽は感性をとおしてメッセージを伝える手段として、多くの人びとが関心を寄せてきたことは事実である。原爆音楽が果たしてきた役割は、感性を通して過去の事実を再構成し、そこから発信される明確なメッセージを共有することであり、人々の関心を共通感情という次元で一つの方向に向けてきたことであろう。これまで60年間に原爆音楽が担ってきた社会的機能を求めるとすれば、そのような意味生産の次元において少なからず役割を果たしてきたといえる。データベース化はそのための基礎資料の集大成であり、再生産への手がかりを与えるものである。しかし、原爆音楽がどのような社会性を構築してきたのかを読み解くのは難しい。なぜなら、一般のコンサートでは会場に空席が目立つことが多く、よほど優れた企画でもない限り、この種のコンサートを満員にするのは困難だからである。つまり、一般化、多様化の一方でマンネリ化、空洞化も進行しており、「ヒロシマ」というキーワードを掲げながら、本来の目的がどこで実を結んでいるのかはなはだ疑問に思われることも少なくない。とはいえ、60年間蓄積されてきた原爆音楽は、今我々に何を語りかけているのだろうか。それらの原点に立ち返り、原爆作品を真摯に振り返る時、演奏を通して人々の感性に訴えかけ、記憶の再生産の繰り返しの中から未来に向かってヒロシマの意味を伝承していく努力の大切さを思い知るのである。
 

謝辞
  今回、原爆音楽に関する一次資料として、当時の記録やプログラム、録音資料などを調査したが、それらを確認し、新しい事実を掘り起こすために、まず地元の中国新聞の記事を主要原拠として参照させていただいた。ここに明記して、敬意と謝意を表したい。
 

(注1) 芝田進午ほか編『反核・日本の音楽』汐文社、1982年、31頁
(注2) 後藤暢子編『山田耕筰全集』第九巻 春秋社、1989年、14頁

参考文献
・原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第二集 原爆被災資料広島研究会 1960年
・中国新聞社編『年表 ヒロシマ~核時代五十年の記録~』メディア開発局出版部 1995年
・『中国新聞項目別記事索引』昭和49年7月~平成10年7月 中国新聞社

(原田宏司・広島大学名誉教授)

ヒロシマと音楽

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