忘れ得ぬヒロシマの音楽

井上 一清


 
  「ヒロシマの音楽」とは何か。被爆による犠牲者への追悼と慰霊、人類の共存と平和を願い求める音楽だった。しかし、エゴの主張やテロの連鎖が絶えない現代社会。戦後60年を経て、「ヒロシマの音楽」その原点の再確認も重要な課題である。 
  1980年4月1日午後6時、広島市公会堂で中国新聞社主催による「広島市政令指定都市記念 未来にはばたけ《ひろしまの歌》」というコンサートが開催された。そのプログラム 第一部 「広響とひろしまの歌」の中で、〈広島市歌〉(清水脩作曲、西村福三作詞)、〈ひろしま平和都市の歌〉(山田耕筰作曲、大木惇夫作詞)、〈ひろしま平和の歌〉(山本秀作曲、重園贇雄作詞)と共に、〈ヒロシマ・ラプソディー〉(ミロスロフ・サバート作曲)と オペラ《ひろしまの花》第一幕(K・フォレスト作曲、エディタ・モリス作詞)がコンサート形式により本邦初演された(ユカ=松尾聡子、オハツ=千葉佳子、サム=益田遥、それに井上一清指揮による広島交響楽団)。
  このコンサートのプログラムの冒頭に、主催者としての中国新聞社による挨拶がある。「ひろしまの音楽」の出発点とも言うべきか。以下そのまま転記する。
 

  広島市には、日本をはじめ外国の作曲家から広島への祈りをこめて交響曲や交響詩、オペラ、合唱曲など全部で34曲の作品が贈られております。主題はいずれも原爆告発、原爆犠牲者の霊に捧げるもの、あるいは平和への願いを歌ったもので、それぞれヒロシマへの熱い思いが込められております。寄贈作品は、日本の17曲を最高に、ソ連7曲、ドイツ5曲、チェコ3曲、イタリアとポーランド各1曲ずつ、この中には日本の大作曲家、山田耕筰作曲〈ひろしま平和都市の歌〉(昭和24年発表)、ソ連の著名な作曲家、ユーリ・レビーチン作曲のオラトリオ《ヒロシマ繰り返すマジ》(昭和45年寄贈)、ポーランドのペンデレッキ作曲〈広島の犠牲者への哀歌〉(昭和29年寄贈)、 東ドイツのJ・K・フォレスト作曲、オペラ《ひろしまの花》全四幕(昭和46年寄贈)、さらに広島とかかわりの深い日本の作曲家、早川正昭が友人のためにささげた〈レクィエム・シャンティ〉など音楽的にみても専門家の間では高く評価される作品が含まれています。
しかしこうしたせっかくの贈り物も、ほとんど一般に公開されることなく長い間、眠ったままになっています。「貴重な贈り物だから、広く市民に披露してほしい」という市民の要望が出て、何度か演奏計画がされたものの、いろいろな面で今日まで実現できなかったものです。中国新聞社は、広島市政令指定都市の昇格を記念し、この埋もれた作品の初公開を企画し、広島在住の音楽家の手によって準備を進め、このたび二つの作品が演奏可能になりました。これらの曲が広島市民の歌として未来にまで歌い継がれることを願うものです。

   

  〈ヒロシマ・ラプソディー〉とオペラ《ひろしまの花》第一幕についてはプログラムにそれぞれ解説があるので、これも次に転記しておきたい。

〈ヒロシマ・ラプソディー〉

  チェコの作曲家、ミロスロフ・サバート氏が作曲し、昭和46年6月、当時の広島市長山田節男氏あてに送ってきました。同封の手紙によると、曲は交響的ラプソディーとして作曲されたもので、標題に「なぜ あなたは恐れているのか」が付けられております。そして「われわれの世界は、動乱あり、奇蹟あり、海に似ている。しかし全世界の人々が結集して力を発揮すれば、この動乱さえも圧倒するでしょう」。同氏の平和に対する信念がこの曲にも織り込まれているものと思われます。

オペラ《ひろしまの花》第一幕

  原爆で両親を亡くした被爆姉妹の家にアメリカの青年(サム)が下宿する。見た目には幸福そうな姉夫婦(フミオ・ユカ)とその妹(オハツ)は、原爆症におかされた身。ときおり発作を起こすフミオを見て、サム青年は、驚きと原爆への怒りにもえる。サム青年はオハツを愛しているが、オハツは両親を奪ったアメリカ青年を愛することはできないし、オハツには好きな青年画家がいる。しかし被爆者であるが故に結婚できないと宣言されてオハツは出奔する。
  第一幕では 衰えゆく愛する夫フミオへの暗い予感におののくユカ。彼女は、そうした夫への愛と共に、フミオを父と慕う同じ被爆者の妹オハツへの愛を歌う。
サムの登場。オハツへの思慕を示すサムに対しオハツは神経を高ぶらせ、間に立ったユカはただ思い悩む。再び夫と妹への愛を歌い、最後に、この家が死の街からの生き残りであることをナイーブなサムに知られないで欲しいと願う。

  以上がプログラムでの解説であり、そのまま紹介したものである。さらに付記すれば、オペラ《ヒロシマの花》の原題は《Die Blumen von Hiroshima》で、1966年に作曲され、1967年6月24日、ワイマールで初演されている。作曲者のフォレスト・ジャン・クルトは1909年4月2日ダルムシュタットに生まれ、1975年3月2日ベルリンで没した旧東ドイツの作曲家である。テキストは、スウェーデンの女流作家エディタ・モリス(1902~一1988)の小説The Flowers of Hiroshima(1959)を題材として作曲者自身が書いたとスコアに記されているので、前述のプログラムでエディタ・モリス作詞とあるのは、必ずしも正確ではない。全六幕からなるオペラである。
  このオペラの原作者エディタ・モリス夫人は、このThe Flowers of Hiroshimaで1961年に「アルベルト・シュヴァイツァー文学賞」を受賞、わが国では阿部知二(1903~1975)により邦訳され、『ヒロシマの花』として朝日新聞社より1971年に出版された。1965年には、その続編としてThe Seeds of Hiroshima『ヒロシマの種』を出版している。また夫の高名なアメリカ人作家アイラ・モリス(1903~1972)と共に1995年に広島を訪れている。広島の地で何かをという二人の熱い思いから生まれた太田川沿いの「ヒロシマ・ハウス」(憩いの家)の設立者としても広島ではなじみ深い。         オペラ《ヒロシマの花》がワイマールで初演された後、1969年秋に東ベルリンの国立劇場で再演されている。その時の舞台写真の一コマが、既述のエディタ・モリス著(阿部知二邦訳)による『ヒロシマの花』の巻頭に紹介されているし、巻末の訳者による「エディタ・モリスと『ヒロシマの花』とについて」という「あとがき」の中で、オペラの再演と邦訳出版の経緯、並びに続編とされる『ヒロシマの種』についての詳述がある。 
  私事であるが、この年1969年の夏、7月7日から16日間、ワイマールでのフランツ・リスト高等音楽院で開かれた東ドイツ国際音楽セミナーに出席した。ソ連のレニングラードフィルハーモニー常任指揮者、東京交響楽団名誉指揮者でもあり東京都の名誉都民でもあった恩師アルヴィド・ ヤンソンス(1914~1984)のオーケストラの指揮法講座を受講するためだった。当時、日本と東ドイツとは国交がなく、確実に入国できる保障の無いことを心配して下さった当時の山田節男広島市長と広島交響楽団理事長高橋定博士のお計らいを頂き、山田市長からワイマール市長宛の親書を携行することで無事入国できた。そして両市長親交の仲立だったのがワイマールで初演されたオペラ《ヒロシマの花》だったと故高橋博士からご教示頂いたことも忘れ得ない。
 
付記 「ヒロシマ」、「ひろしま」の区別、年号等については、参考にした資料にしたがった。

(井上 一清・元エリザベト音楽大学学長)

ヒロシマと音楽

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