ヒロシマの合唱曲

才木 幹夫

  終戦の翌年昭和21年8月5日、旧護国神社の広場(今の市民球場あたり)で平和復興広島市民大会が広島市町内会連合会の主催で開催され、翌6日、慈仙寺鼻(相生橋から中島に繋がる所)の記念礼拝堂で宗教各派が追悼式を行なった。
  昭和22年には広島平和祭協会(会長・浜井信三市長)が設立されて、8月6日に平和式典、慰霊祭が始められている。しかし「お祭り騒ぎと市民の反感を招いた」と広島市の刊行物にある。当時は占領下でどんな行事でも進駐軍の代表が出席し、有形無形の干渉があった時代である。やがて巷では、うたごえ運動も起きてくる。
  さて、このような背景の中で、「原爆の歌」「広島の歌」が生まれてくる。次に、私にとってとりわけ印象に残る合唱曲を取り上げてみよう。
                     
交響詩《広島》  作詞 木下夕爾   作曲 宮原禎次

  NHK広島が芸術祭参加番組として制作したもの。昭和26年11月3日ラジオ放送で初演。福山市在住の詩人木下夕爾(昭和25年没)の詩稿「広島賛歌」の詩に、当時、広島放送管弦楽団の指導のために毎月来広していた、山田耕筰の高弟である宮原禎次(昭和51年没)が作曲した。
  ラジオ放送という点で時間的な制約があり、30分足らずの作品に仕上げられている。交響詩《広島》は三楽章からなっている。第一楽章は「悲劇への回想」と題されて、オーケストラのみで演奏される。原爆一閃阿鼻叫喚の地獄絵の中にも序々に広島復興の黎明は訪れてくる。平和の鐘は人々の心に明るい希望の灯となって谺する。第二楽章は「祈り」と表題があり、テノールとソプラノの独唱と二重唱で綴られる。

夕空に 遠き鐘鳴る
ああ 彼の日 
廃墟にそそぎける 
涙はも かく熱かりき
いやはての 苦難(くるしみ)すぎて
あたらしき なみだぞ落つる
ロザリオの玉のごとくに
その玉の ひとつひとつに
映り消ゆるものの おもかげ 
その玉の ひとつひとつに 
呼ばう名の かくなつかしき
ひと呼びぬ 世界も呼びぬ ソドム・ゴモラ
ああ友よ 償いの土地
み空なる 神の怒りと  
しづかにも かくりみるとき
今そそぐ 涙のたまの
地にしみて 白くかがやく
あたらしき 地の塩とかがやく
ああ友よ 夕空に 遠き鐘鳴る

 
曲は切れ目なく第三楽章〈復活〉に入り合唱が加わる。

朝風に 遠き鐘鳴る 
われは見たり わが街のソドム・ゴモラに
萌えいづるものの みどりを 
よみがえる 生命のしるし 
われは見たり ガリラヤの あおき野を 
大いなる 怒りと愛を 
いやはての 苦難越えて 
ささげ持つ秋草に み恵みの光のしずく    
いやはての 苦難越えて 
大空の 瞳を区切る 
新しき 白き屋根屋根               
不滅なる 生命のしるし
窓を開けよ 救いの窓を 
窓を開けよ 光の窓を 
みよ かなた 七つの川に 
照り映えて 虹かかる 
うつくしき 心をつなぐ 
契約の 虹かかる          
高くかかぐ 契約の 虹かかる

                  

  初演はソプラノの関種子、テノールの阿部幸次、広島放送合唱団、広島放送管弦楽団により、11月3日午後零時半、広島市のザビエル・ホールから全国放送された。当時は録音も3分位ならデイスク・カッターで可能だったが、長時間は無理なので生放送が通常の時代だった。翌27年8月、児童文化会館での一般公開演奏では、ソプラノの栗本尊子、テノールの柴田睦陸、それに広島放送合唱団、広島管弦楽団の演奏に葉室潔バレー団が振り付けをした。 昭和27年の平和記念式典で原爆慰霊碑が除幕されてより、式典は慰霊碑前に変わり、現在に至っているが、当初はこの会場でも交響詩《広島》の第三楽章が演奏された。
          
合唱組曲《ひろしま》 作詞 持田勝穂   作曲 森脇憲三 

  昭和40年1965)、広島少年合唱隊が広島高等師範学校出身で広島に所縁の森脇氏に委嘱した三章からなる作品。 一、清純  二、希望  三、平和
  広島少年合唱隊の重要なレパートリーとして歌い継がれている。

男声合唱のためのレクイエム《碑》(いしぶみ) 作詞 薄田潤一郎  作曲 森脇憲三

  広島メンネルコールの委嘱作品。初演は昭和45年(1970)10月。山本定男指揮、広島メンネル・コールの演奏。「碑」は序章/点呼/爆発/川の中で/時間割り/まさちゃん お母さんよ/船の中で/全滅/終章の九つからなる。8月6日の惨状を率直に描いているところに真実の迫力が伝わってくる。地獄絵を体験したからこそ、九章もの長い詩となったと思う。        
  作曲の森脇、作詩の薄田、指揮の山本も、共に広島二中の卒業生。森脇は5日後に広島市内に入ってその惨状を目のあたりに見ている。3人が万感の想いでこのレクイエムを捧げたことだろう。広島二中の碑は、以前の広島公会堂の正面に位置するところ、現在の広島国際会議場の西側の川辺に建つ。 
  この合唱曲は、後に混声合唱に編曲されて、昭和50年7月31日に市内の合唱連盟所属の団体が集い、エリザベト音大の水嶋良雄教授の指揮、広島大学の新宅雅和講師のピアノで演奏された。

〈遠き日の〉 作詞 原民喜  作曲 団伊玖磨

遠き日の石に刻み 
砂に影おち 崩れ墜つ
天地のまなか 
一輪の花の幻

  この無伴奏合唱曲は、広島城址に慎ましく建立された原民喜碑の除幕式で発表された。後年、空気銃か何かの標的にされたのか、石碑は心なくもひどく傷んで草叢に佇んでいた。今は原爆ドームの東側畔に移されている。

  私にとって、原民喜の詩には特別の感慨がある。       
  終戦間もなく、「広島70年不毛説」が流れた。中国新聞に、畑に播いた種から芽が出たという写真記事が載った。そのあとだったと思うが、原民喜の「永遠のみどり」という短かい詩が載った。

ヒロシマのデルタに 若葉うずまけ 
死と焔の記憶に よき祈りよ こもれ
とわのみどりを とわのみどりを 
ヒロシマのデルタに 青葉したたれ

 放射能に怯え、草木も生えないと報道されていた頃、どれ程この詩に勇気づけられたことか。

原爆小景によるカンタータ《水ヲ下サイ》 作詞 原民喜   作曲 林光

  昭和33年(1958)作曲。この曲は直截的に表現された衝撃的な無伴奏混声合唱曲となった。東京混声合唱団が好演した芸術祭参加のレコードアルバムがある。
原民喜の〈コレガ人間ナノデス〉も本間雅夫により、独唱曲として感銘深い曲に仕上げられている。 

  広島市おかあさんコーラス連盟の会長だった加土恵美子が、広島テレビの第7回平和音楽祭のコーラス出演に際して、孫の洲加本有衣子の詩「忘れないで」に、当時親交のあった平井哲三郎が曲をつけた。その後、第8回平和音楽祭では、「命の手紙」を池辺晋一郎が作曲し、ボニー・ジャクスが歌った。平井は洲加本に詩集に纏めるように勧めて、完成したものが女性合唱曲のための組曲《広島の詩(うた)》である。次の九曲からなっている。
  忘れないで/碑(いしぶみ)/新生/もうだれも/泣かないで/夢/おいでよここへ/命の手紙/生命の歌

  世界的なバラ愛好家であり、原爆症の治療や平和運動家でもあった医師、原田東岷(1999年没)の詩「世界の命=広島の心」が、名古屋の藤掛廣幸により混声合唱曲に仕上げられた。「ひろしま海島博」会場で平成元年8月6日、大上義輝指揮、広島合唱同好会ほかで発表され、その後広島交響楽団(大植英次指揮)のほか、さまざまな編曲により演奏されている。   

  全国のクラシック作品のほかに、終戦直後からの「うたごえ運動」から発して、その後も原水禁、原水協の二つの団体に支えられながら多くの曲が生まれている。  
  昭和41年(1966) 8月6日、原水禁世界大会広島大会のプログラムに載った下畠準三の「ひとつの夏」(1970年刊『本原爆詩集』)が外山雄三の手で作曲され、昭和57年(1982)に交響詩《炎の歌》の中で発表されている。
  昭和56年(1981)関西合唱団が外山雄三に委嘱した、混声合唱組曲《永遠のみどり》は、次の6人の詩に曲がつけられている。
  1 ひとつの夏(下畠準三) 2 はがゆい(正田篠枝) 3 終末(栗原貞子) 4 失ったものに(山田数子) 5 燈篭流し(小園愛子) 6 ヒロシマというとき(栗原貞子)

  東京・音楽センターの大西進の曲は、親しみやすい曲想で各地で愛唱されている。原爆記念日に先立つ7月の終わり頃催される広島市民による「平和の灯の夕べ」には、〈青い空は〉〈原爆を許すまじ〉と共によく歌われた。組曲《似の島》もよく歌われる曲である。小森香子作詩、浜名政昭作曲の〈折鶴の飛ぶ日〉は中間部に童べ唄風の曲想が入って、サダコがよく描写されている。小学生によってよく歌われる合唱曲である。 

広島音楽センターの高田龍治も、門倉さとしの詩による〈風花 冬・ヒロシマに寄せて~〉のほか、山口勇子の詩《おこりじぞう》などの合唱曲を広島合唱団とともに発表している。

(才木幹夫・RCC中国放送 OB)

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