高橋一之さんの話

増田 泉子

  福山市で生まれ、広島で育った。父は中学2年の時に被爆し、両親を亡くしている。昔は多くを語らなかったが、酒を飲んでは「原爆さえなければ」と愚痴っていたのが印象に残る。「親父が背負っているの、嫌だな」と感じていたという。中学、高校でブラスバンドに属してサックスを吹いていた。高校時代にはバンドを組んでロックにのめり込んだ。ピアノやキーボードを弾いた。
  現在、高橋さんは、広島市中区のヤマハでポピュラー音楽の講師を務めている。この「ヒロシマと音楽」でポピュラー部門を任された渡部朋子さんが、「私は門外漢じゃけえ、助けて」と頼った。ちょっとした知り合いというだけだったが、快く引き受けてくれた。
  作業はそれほど大変ではなかったという。元資料に加え、レコード・CDが発売されている作品はインターネットを活用し、足りない分は音楽人脈で補った。
  データをまとめた77曲のうち、実は聴いたことのない曲の方が多い。それはポピュラーゆえの宿命だと、高橋さんは考える。
 

  世紀を超えて譜面が伝えられ、その時々の演奏者が作曲者の思いをくみとり、あるいは新たな解釈を加えて、世に問う―。クラシック音楽にはそんな性格がある。作曲者と演奏者は普通は別である。だからこそ、譜面の発見などを機に名曲が発掘されることもある。
  ポップスはどうだろう。作曲者、作詞者、演奏者の思いをのせないと、命が半減してしまいがちだ。「その人が歌うからこそ価値がある」という世界がある。つまり、音源があってこそ輝きを放つ。「紙」のデータを残すだけでは不十分ではないか―。
  プロレベルなら音源は管理される。アマチュアの作品の中にもいいものはあるだろう。一定の質を確保しながら、音源の蓄積ができるか。単に音源を残すだけでなく、思いを寄せた人の数―レコード、CDの売り上げ枚数や、ライブの動員力など―も、参考資料としてあってもいいかもしれない。作業をしながら、高橋さんはそう思ったという。

 
  日本のポップスで、「ヒロシマ」あるいは「平和」でもいい、それがテーマに座り、みんなが口ずさめる曲があるだろうか。高橋さんは「強いて言えば」と、〈上を向いて歩こう〉を挙げた。メロディそのものの力があると語る。SMAPの〈世界に一つだけの花〉も、「メッセージソングと思う」という。
  「日本のポップスの世界では、『ヒロシマ』とか『戦争』とか、言葉になったとたん引いてしまう雰囲気はありますね。音楽的な価値とは別の物差しが現れるというか。タブーの風潮と言ってもいいかもしれない」。日本のポップスの歌いたいこと、伝えたいことの大半は愛や恋である。「日本の場合、戦争を歌うと、愛や恋を妨げるものというとらえ方ですね」
  今回まとめた資料の中に、気に入ったヘビーメタルの曲があった。ギターソロが恰好いい。タイトルに「ヒロシマ」の文字がある。「日本だとダサイと思われかねない。日本と比べて西洋は、宗教的な精神風土があるからかなあ」と思いをめぐらす。
  広島にツアーで訪れる外国人のミュージシャンで、希望して平和記念公園に向かう人は少なくない。大阪から福岡に飛ぶ場合でも、途中下車で原爆慰霊碑に立ち寄るミュージシャンもいる。政治家などと違い、メディアが報じるケースは少ないし、原爆資料館の対話ノートに言葉を残してくれることはめったにない。案内する音楽関係者や、たまたま行き合わせたファンの記憶に残るだけだ。どうして広島に来たかったのか。実際に来て、何を感じたのか。「とても興味があります。音楽そのもののデータと合わせ、そういう言葉も残したいですね。日本の若いミュージシャンも、音楽スタイルに影響を受けるのと同じように、生き方に刺激されたり、参考にしたりするのではないでしょうか」

(増田泉子・中国新聞論説委員)

ヒロシマと音楽

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