「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」シンポジウムの案内 

 

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」 シンポジウム

    ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

日時:2014年11月29日(土曜)16:30~18:30

場所:広島まちづくり市民交流プラザ・北棟5F 研修室B

                 (広島市中区袋町6番36号)

参加費:無料

司会:   能登原由美 (「ヒロシマと音楽」委員会委員)

発表:●  桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)

              広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~

      ●  川口悠子 (法政大学講師)

              ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える––––谷本清牧師を中心に

      ●  光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)

              広島流川教会における復興と音楽との歩み―谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として

 

シンポジウム  要旨

「ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

 

 広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~  
桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)

年代:1945年~1950年

要旨

広島の「復興」と云えば、丹下健三設計の平和公園や原爆ドーム、平和記念資料館に注目が集まってきたように思います。「復興」とは何でしょうか。失った街を元通りに再建することでしょうか。破壊された街に、新しい建物の建設や記念碑の建立を行うことを意味するのでしょうか。

その「復興」観に対して、報告者はこれまでの研究において、広島と長崎の被爆地で市民から見た「復興」の問題点を挙げながら、「生きる」ことを根本にした被爆者にとっての復興について研究を行ってきました。本講演会では、谷本清牧師の思想と活動を通して、「復興」を考察したいと思います。

原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分、谷本牧師は、爆心地から約3.2kmの距離で被爆しました。奇跡的に傷一つ負わなかった彼は、その後、被爆により、爆心地から逃げてくる重傷者たちと出会います。全市が原爆により炎に包まれていく様子を目の当たりにしながら、谷本牧師は、火の海の中にいるであろう教会員や町内会の人、そして家族のことが心配になり、負傷者の群れとは逆に市内の方面へと進んでいきました。その際に、直視した被爆体験の悲惨さ。助けることのできなかった負傷者たち。牧師として自らの責務を果たせたのか、という自問。谷本牧師は、自らも被爆者でありながら、負傷者たちを救えなかったことに自責の念に駆られます。この無残な被爆体験は、彼が平和運動に身を捧げる原点となったといえるでしょう。被爆から1か月後の9月下旬には、彼自身が放射線障害ともいうべき症状に襲われて寝込みます。体調の回復後、彼が真っ先に取り組んだのは破壊された流川教会の復興です。教会員の信仰の厚さと信者の教会復興への願いが彼の心を更に動かし、支えとなるのです。そして、被爆地に留まり教会の復興と伝道に力を尽くしました。廃墟の中、支援も救援もない中で彼は教会の復興に孤軍奮闘します。そんな彼の道を開いた一つの大きなきっかけとなったのは、彼の被爆体験がジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で紹介されたことです。これにより、彼の被爆体験は米国をはじめとして世界に知られるようになり、支援の道を獲得していくのです。

目の前の被爆者を救うために自分に何ができるかを問いながら、格闘していった谷本牧師の思想と行動を通して、被爆地において取り組まれた復興を考察したいと思います。

 

ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える ~谷本清牧師を中心に~
川口悠子 (法政大学講師)

年代:1930年代~1940年

要旨

ヒロシマ・ピース・センターの設立には、米国の人々の協力が得られたことが重要なファクターとなっていました。谷本清牧師は1948年10月から1949年12月、1950年9月から1951年7月など、数次にわたって米国を訪問し、ピース・センター設立の方途を探りました。その努力の中で1949年3月にニューヨークでヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ(協力会)が設立されたことは、広島でピース・センターが設立され、被爆者救援事業を進めるにあたり、大きな力となりました。

ところで、当時日本は米国の占領下にあり、海外渡航はごく限られた人しかできませんでした。また、米国では、原爆投下は仕方なかったという世論が多数派を占めていたことはよく知られています。その中で、谷本牧師はなぜ長期間にわたって米国を訪問し、多くの人にはたらきかけることができたのでしょうか。この報告では、これらの疑問を通じて、ヒロシマ・ピース・センターの設立過程について考えます。

その際のカギのひとつは、谷本牧師と米国の人々との結びつきの原点ともいえる、牧師の米国留学経験です。谷本牧師は1937年7月から1941年春まで、米国に留学していました。エモリー大学神学部(ジョージア州アトランタ)で学ぶあいだ、谷本牧師は教員や同級生など、多くの人の知遇を得ました。帰国後まもなく日米のあいだに戦端が開かれたことで、交流はいったん難しくなりました。しかし戦後、谷本牧師がジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」の主人公のひとりとなったことで、エモリー大学関係者らは、谷本牧師が原爆に遭い、生き延びたことを知ります。こうして交流が再開し、米国メソジスト教会が谷本牧師を招待したことで、当時としては異例の米国訪問が実現したのです。留学時代に築いた人間関係は、牧師が米国でピース・センターへの賛同者を探す際にも、重要な役割を果たしました。

このように、ピース・センターの設立にあたり、谷本牧師の留学経験は、広島と米国での活動をつなぐ役割を果たしました。報告では、具体的なエピソードも交えつつ、ピース・センターの設立過程について、谷本牧師と米国の人々とのかかわりから考えていきます。

 

広島流川教会における復興と音楽との歩み ~谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として~
光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)

年代:1945年~1951年

要旨

 広島流川教会は被爆後のヒロシマの地で、復興への長き道のりを音楽と共に歩んできました。本教会は、被爆翌年より早くも慈善音楽会や進駐軍を招いての演奏会のほか、市民クリスマスも開催するなど、大いに市民を音楽で勇気づけました。

1947年秋には、当時、広島流川教会の主任牧師であった谷本清牧師の留学時代の知人リリアン・コンデット氏から《メサイア》の楽譜30冊が贈られてきます。それを契機として、広島師範学校の音楽教師であった太田司朗氏を中心として教会員や師範学校の生徒による男女混声合唱の聖歌隊が組織。同年12月21日に教会で行われたクリスマス讃美礼拝のほか、24日に行われた第2回市民クリスマスで《メサイア》の抜粋演奏会が行われました。さらに同日の夕刻には「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」として広島流川教会からラジオ生中継が行われ、市民に向け、平和への道を音楽と共に歩むという彼らのメッセージが電波を通じて広く伝えられました。なお、本放送では聖書朗読や祈祷に加え、讃美歌2曲と、ここでも《メサイア》より〈ハレルヤコーラス〉の演奏が行われています。

さらに、音楽でヒロシマ、そして日本の平和的復興を願った谷本清牧師及び太田司朗氏は、音楽活動のみならず、これからの時代を担う幼い子どもたちへの音楽教育にも目を向けました。そして彼らは、太田司朗氏の生徒であった板野平氏を、1951年にアメリカのダルクローズ音楽学校へ奨学生として派遣し、そこで得た新しい音楽教育の萌芽が日本中で開花し、拡がることを願ったのです。この願いに応えるように板野氏は帰国後、この世を去るまで日本におけるリトミック教育の普及・発展に尽力し続けます。このように谷本清牧師、そして太田司朗氏の想いは、広島のみならず日本中で今も生き続けているのです。

本報告では、音楽と共にヒロシマ復興の道を歩んだ教会の足跡原点に遡り、音楽の力を信じた彼らの音楽活動・教育とそこに込められた願いを紹介したいと思います。

ヒロシマと音楽

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