「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その①

「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 1

「交響曲第2番ヒロシマ」は「ヒロシマと音楽」委員会が作成したデータベースによると、フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンによって1949年作曲されました。
データベース(主要作品)全体
その音楽が広島で演奏されたのは、1955年8月15日、今から60年前の今日でした。その年の春に開館したばかりの広島市公会堂で昼夜2度にわたるコンサートでした。指揮は朝比奈隆、演奏は関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)。中国新聞の記事によれば、2回の演奏で5000人が詰めかけ大成功だった。さらに、公演の模様は6日後の8月21日にラジオ中国(1967年中国放送と改称)で放送されている。
しかしながら、その後、演奏されることもなく、音源もなく、楽譜も不明でした。「ヒロシマと音楽」委員会の資料作成事業のなかで、能登原由美委員(現委員長)が楽譜を発見し、フィンランドのヘルシンキで、この作曲家エルッキ・アールトネンの遺族に会い、初演時の録音を聴き、被爆70周年の2015年に広島での再演を関係者によびかけ、広島での再演が実現することになりました。

日時:2015年11月16日(月)19:00 開演
場所:JMSアステールプラザ大ホール
演奏:広島交響楽団
指揮:高関健
主催:広島市文化財団アステールプラザ

広島での再演へ向けての過程を、数回に亘って紹介します。

chugoku 20120512 ongakufu
       中国新聞記事

ヒロシマ音楽譜 1 作品が紡ぐ復興  能登原由美

ヒロシマは音楽家を駆り立ててきた。生まれた作品の多くは、惨劇の向こうに、復興をみていた。音楽に何ができるか、それは東日本大震災が突きつけた問いでもあった。クラシツク、歌曲、ジャズ…。ヒロシマの復興と共に歩んだ音楽作品を今、たどりたい。

ヒロシマを音に託した音楽家は数多いが、歌詞のない器楽作品となると意外に少ない。その器楽作品でいち早くヒロシマを表現したのが、実は海外の作曲家であったことをご存じだろうか。フィンランドのエルッキ・アールトネン(1910〜90年)である。
彼の交響曲第2番「HIROSHIMA」は、被爆からわずか4年後の1949年に作曲され、その年にヘルシンキで初演された。故国がロシア、ドイツとの戦争で荒廃し、自らも戦地に赴いたアールトネン。原爆投下の知らせを聞いて即座に作曲を思い立った背景には、こうした事情が影響していたかもしれない。
筆者は今年3月、ヘルシンキでアールトネンの遺族に会い、初演時の録音を聴いた。8月6日を予感させる陰鬱な冒頭。一転して広がる穏やかなメロディーは、惨劇前の広島を表しているのだろうか。だが、軍隊のマーチに続いて冒頭のメロディーが再び現れる。そして、投下の瞬間を思わせる爆発音。わずかに残った音の世界に葬送のメロディーが静かに鳴り響く。
この交響曲は、原爆投下の様子を音で描写する。ただし、あくまで作曲者アールトネンの想像上の世界である。想像は広島の未来にまで及び、終楽章では冒頭のメロディーが長調に変わって何度も繰り返され、惨劇に立ち向かう人間の内なる力強さが表現される。
その音楽が広島に届けられたのは55年8月15日のことであった。その春に開館したばかりの広島市公会堂で昼夜2度にわたるコンサートが開催された。指揮は朝比奈隆、
演奏は関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)。広島出身の関西財界人の支援により、全席無料のコンサートとなる。
報道によれば、2回で5千人が詰めかけ、大成功に終わった。極北で広島を思うアールトネンのもとに、感激した聴衆から手紙が届く。それによれば、演奏直後、長い沈黙が続いた。その後、観客は総立ちになって割れんばかりの拍手を送り続けたという。
(2012年5月12日中国新聞より)

(コンサートの様子を写真付きで報じた翌日の中国新聞紙面は、下記をクリックして下さい)

中国新聞記事 ヒロシマ音楽譜 1 作品が紡ぐ復興 能登原由美

なお、アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。

アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》

 

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