二葉あき子さんの歌碑 完成

 

2015年11月7日 二葉あき子さんの歌碑の除幕式が行われました。

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広島市東区二葉の里で7日、東区出身の歌手、二葉あき子さん(1915〜2011年)の歌碑の除幕式があった。地元住民や市職員約70人が参加。被爆70年と二葉さんの生誕100年に合わせ、住民たちでつくる委員会が企画した。
高さ1.8メートル、幅3.2メートルの碑には二葉さんの代表作「夜のプラットホーム」の歌詞が記してある。歌碑建立委員会の原田康夫委員長( 84)や松井一実市長が除幕すると、会場から大きな拍手が起こった。
原田委員長は「多くの方の寄付で立派な碑ができた。平和を願って歌い続けたあき子さんの思いを感じてほしい」と話していた。(原未緒)
(2015年11月8日 中国新聞より)

2015年11月8日 中国新聞

 

この歌碑は二葉あき子さんのファンや交流のあった市内の有志約20人が2012年10月に、歌碑建立委員会を結成し、建立費と維持管理費として計500万円を見込み、一口2千円の支援を募って進めてきました。

二葉あき子歌碑 建立の趣旨

二葉あき子(本名:加藤芳江)は、大正4(1915)年2月2日、広島市東区二葉の里で生れました。昭和9(1934)年、東京音楽学校在学中に日本コロムビアから『四つ葉のクローバー』と題する教育音楽を吹き込み、以降、音楽一筋の道を歩み、平成23(2011)年に亡くなるまで、昭和・平成の二世代にわたって歌い続け、『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』『水色のワルツ』『さよならルンバ』など数多くのヒット曲で、わが国の歌謡史を飾る代表的な歌手として活躍してきました。
昭和20(1945)年8月6日、原爆投下の際には、父の郷里である三次市に向かう芸備線に乗車しており、列車が東区中山トンネルに入った途端に原爆の閃光と爆音に遭い危うく難を逃れ、それ以降、反戦平和への気持ちは人一倍強く『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』は、原爆や戦争の犠牲者への鎮魂の歌として終生歌い続けてきたのです。
この碑に刻まれている彼女の代表歌の一つである『夜のプラットホーム』は、太平洋戦争時につくられたもので、出征兵士を見送る悲しい別れの場面が連想されることから、戦時中は軍部から発売禁止されていたという経緯がありますが、昭和22(1947)年以降、彼女は『二度とこんな別れの光景を見ることのないように』との願いを込めて歌い、大ヒットしたもので、彼女の功績を讃えるモニュメントとしての意義は大きなものがあると言えましょう。

二葉あき子の平和への思いを込めて歌い続けた意志を讃え
生誕100年・被爆70年を記念して歌碑を建立した。

平成27(2015)年11月吉日
二葉あき子歌碑建立委員会 委員長 原田康夫

二葉あき子歌碑建立委員会
TEL 090-8602-1043

ヒロシマと音楽

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