「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 3
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 2 で紹介しました
「交響曲第2番ヒロシマ」コンサート広島公演のチラシが出来ました。
ヒロシマの追憶と飛翔 ~二つの交響曲HIROSHIMA~チラシ表
ヒロシマの追憶と飛翔 ~二つの交響曲HIROSHIMA~チラシ裏
この曲は、フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンの作品で、被爆からわずか4年後の1949年に作曲され、その年にヘルシンキで初演されました。その音楽が広島に届けられたのは被爆10周年の1955年8月15日のことでした。その春に開館したばかりの広島市公会堂で昼夜2度にわたるコンサートが開催されました。指揮は朝比奈隆、演奏は関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)。この曲が、被爆70周年のこの年、広島で下記のように再演されます。
被爆70周年記念事業
ヒロシマの追憶と飛翔 ~二つの交響曲HIROSHIMA~
日時 :2015年11月16日(月)19:00 開演 (18:15 開場)
プレ・トーク18時45分 能登原由美(「ヒロシマと音楽」委員会委員長)
場所 :JMSアステールプラザ大ホール
プログラム
:「交響曲第2番HIROSHIMA」 エルッキ・アールトネン
:「交響曲第6番HIROSHIMA」 團伊玖磨
演奏 :広島交響楽団
指揮 :高関健
主催 :広島市文化財団アステールプラザ、日本交響楽振興財団、中国新聞社
お問合せ:広島市文化財団アステールプラザ 082-244-8000
ヒロシマの追憶と飛翔 チケット(税込/全席指定)は
本日 8月22日(土)から販売開始されます。
S席 4,000円
A席 3,000円
学生券 1,500円 *学生券はJMSアステールプラザでのみ取扱います。
プレイガイド情報・コンサートの詳細は、広島市文化財団アステールプラザ HP 下記を参照下さい。
広島市文化財団アステールプラザ HP
なお、「交響曲第2番ヒロシマ」は広島公演に引き続き、大阪フィルが12月5日に兵庫県西宮市の県立芸術文化センター、12月6日に広島県三原市の市芸術文化センター・ポポロで演奏することが決定しています。
なお、能登原由美(本委員会委員長)執筆のアールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。
アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 2
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 1 で紹介しました「交響曲第2番ヒロシマ」は、広島公演に続いて、大阪フィルが12月5日に兵庫県西宮市の県立芸術文化センター、12月6日に広島県三原市の市芸術文化センター・ポポロで演奏することが決定。古い楽譜の中から出てきた交響曲「HIROSHIMA」総譜を見つけた大阪フィルハーモニー交響楽団の顧問・小野寺昭爾さんが能登原由美さんに存在を教え、関係者に再演をよびかけ、被爆70周年の2015年、広島市、広島県三原市、兵庫県西宮市での再演が決まりました。
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演されるまでの過程が、2015年8月11日の読売新聞夕刊に紹介されました。
以下、読売新聞記事から。
広島60年ぶり希望の旋律
広島の原爆投下を題材にフィンランドの音楽家によって作曲され、1955年、指揮者・朝比奈隆(1908〜2001年)が広島市内で国内初演を実現させた交響曲「HIROSHIM A 」が今年11、12月、国内で60年ぶりに再演される。戦後70年の節目、平和を願うシンフォニーが再び響く。
戦後70年 朝比奈隆 日本初演 交響曲再演へ
作曲者はエルッキ・アールトネン(1910〜90年)=写真=。ビオラ奏者として活動する傍ら作曲も行った。「HIROSHIM A 」は49年に完成、ヘルシンキで世界初演。来日したことはないが「ヒロシマの悲劇が起こった時、既に私はこの交響曲の作曲を決心していた。全人類がこの不幸を嘆き、その慣りは絶頂に達した」と、プログラムに書いた。
7部構成で、演奏時間は約30分。暗い旋律で始まり、「火の爆風」と名付けられた後半部では爆発を連想させる大音量が鳴り響き、犠牲者を弔う葬送行進曲風のリズムが続く。フィナーレは一転、明るい音色で希望を表現する。
朝比奈は53年、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団に客演。楽団員だったアールトネンから総譜を手渡され、「平和の祈りを込めて、焦土から立ち上がる広島の姿をイメージして作曲しました。私がなし得る唯一のプレゼントです」と、広島での演奏を熱望された。その様子について朝比奈は「心を打つものがあった」と日本への手紙に記した。
終戦から10年後の55年8月15日、朝比奈は関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)を率いて広島市公会堂でこの交響曲を取り上げた。広島出身の関西財界人の援助で無料公演となり、昼夜2回で計約5000人が来場。同月末、京都市でも演奏されたが、その後、楽譜の存在は忘れられていった。
作品を掘り起こしたのは、原爆をテーマとする曲を調査してきた市民団体「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美さん(44)=写真=だ。「曲の散逸を防いで若い世代に引き継ぐため、個別の作品を詳しく調べたいと思った」と語る。
アールトネンについては2008年から本格的に調べ、大阪市の大阪フィルに総譜が保管されていることを確認した。フィンランドの遺族を訪ね、日本の聴衆からアールトネンに「被爆当時を思い出して心の中で泣きました」などと、感謝の手紙が届いていたことも分かった。
能壼原さんは「おそらくヒロシマを題材にした最初の交響曲で、最初の外国人作品。アールトネンは第2次大戦に従軍経験があり、心と街の復興を願って曲を作ったのでしょう」と話す。
能登原さんや、大阪フィル顧問・小野寺昭爾さん(80)らの呼びかけが、再演への原動力になった。広島交響楽団が11月16日、広島市のJMSアステールプラザ大ホールで披露。大阪フィルが12月5日に兵庫県西宮市の県立芸術文化センター、同6日に広島県三原市の市芸術文化センター・ポポロで演奏する。大阪フィルの首席指揮者、井止道義さん(68)は「戦後10年で、朝比奈さんは『何かをしなければ』という気持ちで、こ曲を広島で初演した。観客と社会、自分たちのために演奏する」と決意を語っている。
2015年8月11日読売新聞夕刊の記事は 下記をクリック下さい。
2015年8月11日読売新聞夕刊
なお、アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。
アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その 1
「交響曲第2番ヒロシマ」は「ヒロシマと音楽」委員会が作成したデータベースによると、フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンによって1949年作曲されました。
データベース(主要作品)全体
その音楽が広島で演奏されたのは、1955年8月15日、今から60年前の今日でした。その年の春に開館したばかりの広島市公会堂で昼夜2度にわたるコンサートでした。指揮は朝比奈隆、演奏は関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)。中国新聞の記事によれば、2回の演奏で5000人が詰めかけ大成功だった。さらに、公演の模様は6日後の8月21日にラジオ中国(1967年中国放送と改称)で放送されている。
しかしながら、その後、演奏されることもなく、音源もなく、楽譜も不明でした。「ヒロシマと音楽」委員会の資料作成事業のなかで、能登原由美委員(現委員長)が楽譜を発見し、フィンランドのヘルシンキで、この作曲家エルッキ・アールトネンの遺族に会い、初演時の録音を聴き、被爆70周年の2015年に広島での再演を関係者によびかけ、広島での再演が実現することになりました。
日時:2015年11月16日(月)19:00 開演
場所:JMSアステールプラザ大ホール
演奏:広島交響楽団
指揮:高関健
主催:広島市文化財団アステールプラザ
広島での再演へ向けての過程を、数回に亘って紹介します。
ヒロシマ音楽譜 1 作品が紡ぐ復興 能登原由美
ヒロシマは音楽家を駆り立ててきた。生まれた作品の多くは、惨劇の向こうに、復興をみていた。音楽に何ができるか、それは東日本大震災が突きつけた問いでもあった。クラシツク、歌曲、ジャズ…。ヒロシマの復興と共に歩んだ音楽作品を今、たどりたい。
ヒロシマを音に託した音楽家は数多いが、歌詞のない器楽作品となると意外に少ない。その器楽作品でいち早くヒロシマを表現したのが、実は海外の作曲家であったことをご存じだろうか。フィンランドのエルッキ・アールトネン(1910〜90年)である。
彼の交響曲第2番「HIROSHIMA」は、被爆からわずか4年後の1949年に作曲され、その年にヘルシンキで初演された。故国がロシア、ドイツとの戦争で荒廃し、自らも戦地に赴いたアールトネン。原爆投下の知らせを聞いて即座に作曲を思い立った背景には、こうした事情が影響していたかもしれない。
筆者は今年3月、ヘルシンキでアールトネンの遺族に会い、初演時の録音を聴いた。8月6日を予感させる陰鬱な冒頭。一転して広がる穏やかなメロディーは、惨劇前の広島を表しているのだろうか。だが、軍隊のマーチに続いて冒頭のメロディーが再び現れる。そして、投下の瞬間を思わせる爆発音。わずかに残った音の世界に葬送のメロディーが静かに鳴り響く。
この交響曲は、原爆投下の様子を音で描写する。ただし、あくまで作曲者アールトネンの想像上の世界である。想像は広島の未来にまで及び、終楽章では冒頭のメロディーが長調に変わって何度も繰り返され、惨劇に立ち向かう人間の内なる力強さが表現される。
その音楽が広島に届けられたのは55年8月15日のことであった。その春に開館したばかりの広島市公会堂で昼夜2度にわたるコンサートが開催された。指揮は朝比奈隆、
演奏は関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)。広島出身の関西財界人の支援により、全席無料のコンサートとなる。
報道によれば、2回で5千人が詰めかけ、大成功に終わった。極北で広島を思うアールトネンのもとに、感激した聴衆から手紙が届く。それによれば、演奏直後、長い沈黙が続いた。その後、観客は総立ちになって割れんばかりの拍手を送り続けたという。
(2012年5月12日中国新聞より)
(コンサートの様子を写真付きで報じた翌日の中国新聞紙面は、下記をクリックして下さい)
中国新聞記事 ヒロシマ音楽譜 1 作品が紡ぐ復興 能登原由美
なお、アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。
「交響曲第5番ヒロシマ」(作曲 大木正夫)初演音源 発見される
丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」に着想を得た、作曲家大木正夫の「交響的幻想曲ヒロシマ 原爆の図に寄せて」の初演音源(1953年)が、横浜市内のTBS の倉庫で見つかった。
同曲は、「幽霊」「火」「水」「少年少女」など全8楽章で構成し、不協和音を連続させ原爆の惨状を表す現代音楽。発見された音源は、53年11月1日にラジオ東京(現TBS)の番組「コンサートホール」で放送されたが、存在を知られていなかった。TBSホールディングスが音源資料を整理する中で確認した。
戦前から戦時中にかけて戦意高揚の作品を多く発表し、戦後は一転して反戦の音楽を作った大木。同曲の自筆の楽譜に「(原爆被害の)実相を人類の一人残らずに知らせることは(中略)日本人の人類に対する義務である」などと書き込んでいた。その後改訂し、大木の代表作「交響曲第5番ヒロシマ」として発表した。
ヒロシマが題材の楽曲収集や活用に取り組む「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美委員長(44)は「ヒロシマを音楽で描写した作品としても、ラジオ放送で多くの人にヒロシマのことを伝えた音楽としてもかなり早い時期の作品。その音源が発見された意義は大きい」と話した。音源は年内に日本コロムビアから発売される予定。(余村泰樹)
(2015年8月4日中国新聞朝刊)より
なお、楽譜は広島公文書館に寄贈されています。
参考資料は下記をクリックして下さい。
中国新聞記事 交響曲「ヒロシマ」初演音源
TBS ホールディングスNews リリース 「原爆音楽」の源流、大木正夫作曲 「交響的幻想曲ヒロシマ原爆の図に寄せて」の初演音源発見。