「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その6
フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンの交響曲第2番「HIROSHIMA」が2015年11月16日、広島市で60 年ぶりに再演されました。
アールトネンの交響曲第2番は、三原市の市芸術文化センターポポロで、12月6日午後4時から開催される大フィルの特別演奏会でも再演されます。指揮は井上道義。
中国新聞備後本社など主催。
特別演奏会 に向けて、三原市芸術文化センターポポロでは、企画展、プレレクチャーを下記のように開催します
アールトネン/朝比奈隆 企画展
「復興と音楽と人々~ヘルシンキ・大阪・ヒロシマ」
期間 : 11月21日(土)~12月6日(日)
時間 : 9:00~17:30
場所 : 三原市芸術文化センター ポポロ ホワイエ
入場無料
問合せ: 三原市芸術文化センターポポロ 電話 0848 (81) 0886
大フィル公演プレレクチャー「ヒロシマと音楽」
~ヒロシマを表した多くの作曲家たち~
日時 : 11月22日(日)14:00~16:00
会場 : 三原市芸術文化センターポポロ リハーサル室
講師 : 能登原由美(「ヒロシマと音楽」委員会委員長)
内容 : ヒロシマ被爆70周年メモリアル「大阪フィルハーモニー交響楽団三原特別演奏会」の
プレレクチャーとして、被爆から70年の間に表された「ヒロシマ」の音楽を通して、
そのさまざまな表現法や作曲家の思い、「ヒロシマ」に対するまなざしの変化を解説します。
入場無料 (要入場整理券) ※入場整理券はポポロ事務所で配布しています。
問合せ: 三原市芸術文化センターポポロ 電話 0848 (81) 0886
アールトネンの交響曲第2番は、三原市の市芸術文化センターポポロで、12月6日午後4時から開催される大フィルの特別演奏会でも再演されます。
チラシは下記を参照下さい。
三原特別演奏会のチラシ
なお、能登原由美(本委員会委員長)執筆のアールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。
アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》
「交響曲第2番ヒロシマ」60年ぶりに広島で再演される その5
フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンの交響曲第2番「HIROSHIMA」が2015年11月16日、広島市で60年ぶりに再演されました。
高関健の指揮で広島交響楽団の演奏。この模様を2015年11月17日の中国新聞で紹介されました。
フィンランドの作曲家エルッキ・アールトネンの交響曲第2番「HIROSH IMA」が16日、広島市で60年ぶりに響いた。ヒロシマ関連の楽曲収集に取り組む市民グループ「ヒロシマと音楽」委員会が、眠っていた作品を見つけ、同市の被爆70年事業として広島交響楽団による再演が実現。遠く北欧から被爆地に思いをはせた曲に約700人が聞き入った。(余村泰樹)
交響曲はアールトネンが原爆投下4 年後の1 949年に作曲。広島での演奏は、作者に曲を託された指揮者、故朝比奈隆率いる関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)が55年、平和記念公園(中区)内にあった市公会堂で日本初演して以来となった。
この日、中区のJMS アステールプラザであった演奏会では、同委員会の能登原由美委員長( 44)が「アールトネンと広島の人々が心を通い合わせた曲。音楽を通じ、ヒロシマや核、未来への思いを共有する場になれば」と呼び掛けた。
その後、広響の元音楽監督・常任指揮者、高関健が指揮し、原爆投下の爆発音や、惨禍を乗り越えていく力強さを表現した音色を響かせた。
演奏会の後半は、被爆40年に團伊玖磨が作曲した交響曲第6番「HIROSHIMA」。ソプラノ並河寿美と横笛の赤尾三千子を迎え、広島の再生や復興を高らかに歌い上げた。中国新聞社などの主催。
2015年11月17日の中国新聞記事
60年ぶり 復興の調べ アールトネンの交響曲第2番 広島で再演
アールトネン 関連記事 も 紹介します。
2015年11月17日の中国新聞記事 亡き父へ思い 次男ら初来日
アールトネンの交響曲第2番は、三原市の市芸術文化センターポポロで、12月6日午後4時から開催される大フィルの特別演奏会でも再演されます。指揮は井上道義。中国新聞備後本社など主催。
ポポロ 電話 0848 (81) 0886。
チラシは下記を参照下さい。
三原特別演奏会のチラシ
なお、能登原由美(本委員会委員長)執筆のアールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》をも、参照下さい。
アールトネンの《交響曲第二番 Hiroshima》
「ヒロシマ」が鳴り響くとき 能登原由美 著 の案内 その2
「ヒロシマと音楽」委員会委員長の能登原由美さんが、平和を語り継ぐために… 戦後音楽70年の証言 として、「 『ヒロシマ』 が鳴り響くとき 」を 2015年11月25日 春秋社から出版されますが、2015年11月14日の中国新聞にその経緯が紹介されました。
ヒロシマ題材の楽曲収集 能登原さん新著
ヒロシマを題材とする楽曲の収集や活用に取り組む「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美委員長(44)が25日、新著「『ヒロシマ』が鳴り響くとき 」を刊行する。 掘り起こした交響曲が被爆70年のことし再演されるのを機に、20年の活動をまとめた。「ヒロシマの意味を、音楽を通じて見詰め直してほしい」と語る。 (余村泰樹)
被爆70年の歩み 音楽でたどる
これまで「ヒロシマ」関連の1800曲以上を収集してきた能登原さん。
「惨劇からの復興という定型のストーリーで創られることが多いが、違う見方を示している作品もある」と指摘する。著書では、曲の内容や演奏される場の変遷などを、当時の社会情勢に照らし合わせながら、3部構成でつづった。
第1部は、被爆後しばらくは「平和」「復興」を歌う曲が多数作られ、連合国軍総司令部のプレスコード解除後に原爆の惨状に迫る作品が出てきた流れを紹介。第2部は、第五福竜丸事件後の反核運動などとともに、関連の楽曲が盛んに演奏された様子に迫る。
第3部では「ヒロシマ」という言葉が持つ影響力の大きさを、佐村河内守氏による作曲者偽装問題が発覚した交響曲第1番「HIROSHIMA」などを例に浮かび上がらせている。新たな表現を探ろうとする細川俊夫や糀場富美子ら、広島出身の現代作曲家の創作にも光を当てた。
フィンランド人作曲家エルッキ・アールトネンの交響曲第2番「ヒロシマ」については、264ページの著書の中で特に多くを割いた。16日に広島市、12月6日に三原市と、日本では60年ぶりに再演される曲だ。
被爆4年後の1949年にフィンランドで初演された同作は、「ヒロシマ」を題材にした最初の交響曲の可能性が高いという。本書の中では、東西冷戦下に東欧諸国で盛り上がった平和運動に後押しされて各地で交響曲が演奏され、関西交響楽団(現大阪フイルハーモニー交響楽団)指揮者の朝比奈隆がフィンランド訪問時にアールトネンと偶然出会ったことによって日本にも紹介された歴史を記している。
能登原委員長は「節目の年に、ヒロシマと音楽との関わりを振り返るきっかけにしてほしい」と話している。春秋社刊。四六判。2376円。
アールトネンの交響曲は11月16日午後6時45分から、広島市中区のJMSアステールプラザで広島交響楽団が、12月6日午後4時から三原市芸術文化センターポポロで大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏する。
2015年11月14日の中国新聞は下記を参照下さい。
お問合せは、
春秋社 〒101-0021 東京都千代田区外神田2-18-6
Tel 03-3255-96112 FAX 03-3253-1384
下記、チラシをご利用下さい。
「ヒロシマ」が鳴り響くとき 能登原由美 著 の案内
「ヒロシマと音楽」委員会委員長の能登原由美さんが、平和を語り継ぐために… 戦後音楽70年の証言 として、「ヒロシマ」が鳴り響くとき を 2015年11月25日 春秋社から出版されます。 四六判上製カバー装 定価(本体2200円+税)
目次より (全10章構成)
Ⅰ― 「ヒロシマ」はどのように音に表されてきたか
第一章 希望と絶望のベクトル
第二章 「ヒロシマ」という物語の表現
第三章 当事者と非当事者の間
Ⅱ― 「ヒロシマ」はどのように演奏されてきたか
第四章 東西冷戦と平和運動のなかで
第五章 占領からの解放と第五福竜丸事件以後
第六章 世界の反戦・反核運動とともに
Ⅲ― 「ヒロシマ」はどのように聴かれてきたか
第七章 「ヒロシマ」というイメージを聴く
第八章 「ヒロシマ」に時代を読む音楽
第九章 新たな世代における「ヒロシマ」
終 章 七〇年目に振り返る「ヒロシマ」と音楽
*著者の言葉*
音楽は時代を映すという。 ここで私たちにできることは、自らの目で
音楽やその主題に対峙し、 享受していくことではないだろうか。今と
いう時代を読み取るため、 また予測のつかない未来を生き抜くために。
*著者略歴*
能登原由美(のとはら・ゆみ)
広島市生まれ。2003年広島大学大学院教育学研究科博士課程後期終了。学術博士。専門は音楽学で、研究対象は「ヒロシマ」の音楽のほか、イギリス音楽史、日本近代の洋楽受容史。著書に『ヒロシマと音楽』(共著、汐文社、2006年)他、論文多数。現在、「ヒロシマと音楽」委員会委員長。
お問合せは、
春秋社 〒101-0021 東京都千代田区外神田2-18-6
Tel 03-3255-96112 FAX 03-3253-1384
下記、チラシをご利用下さい。
2015年11月7日 二葉あき子さんの歌碑の除幕式が行われました。
広島市東区二葉の里で7日、東区出身の歌手、二葉あき子さん(1915〜2011年)の歌碑の除幕式があった。地元住民や市職員約70人が参加。被爆70年と二葉さんの生誕100年に合わせ、住民たちでつくる委員会が企画した。
高さ1.8メートル、幅3.2メートルの碑には二葉さんの代表作「夜のプラットホーム」の歌詞が記してある。歌碑建立委員会の原田康夫委員長( 84)や松井一実市長が除幕すると、会場から大きな拍手が起こった。
原田委員長は「多くの方の寄付で立派な碑ができた。平和を願って歌い続けたあき子さんの思いを感じてほしい」と話していた。(原未緒)
(2015年11月8日 中国新聞より)
この歌碑は二葉あき子さんのファンや交流のあった市内の有志約20人が2012年10月に、歌碑建立委員会を結成し、建立費と維持管理費として計500万円を見込み、一口2千円の支援を募って進めてきました。
二葉あき子歌碑 建立の趣旨
二葉あき子(本名:加藤芳江)は、大正4(1915)年2月2日、広島市東区二葉の里で生れました。昭和9(1934)年、東京音楽学校在学中に日本コロムビアから『四つ葉のクローバー』と題する教育音楽を吹き込み、以降、音楽一筋の道を歩み、平成23(2011)年に亡くなるまで、昭和・平成の二世代にわたって歌い続け、『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』『水色のワルツ』『さよならルンバ』など数多くのヒット曲で、わが国の歌謡史を飾る代表的な歌手として活躍してきました。
昭和20(1945)年8月6日、原爆投下の際には、父の郷里である三次市に向かう芸備線に乗車しており、列車が東区中山トンネルに入った途端に原爆の閃光と爆音に遭い危うく難を逃れ、それ以降、反戦平和への気持ちは人一倍強く『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』は、原爆や戦争の犠牲者への鎮魂の歌として終生歌い続けてきたのです。
この碑に刻まれている彼女の代表歌の一つである『夜のプラットホーム』は、太平洋戦争時につくられたもので、出征兵士を見送る悲しい別れの場面が連想されることから、戦時中は軍部から発売禁止されていたという経緯がありますが、昭和22(1947)年以降、彼女は『二度とこんな別れの光景を見ることのないように』との願いを込めて歌い、大ヒットしたもので、彼女の功績を讃えるモニュメントとしての意義は大きなものがあると言えましょう。
二葉あき子の平和への思いを込めて歌い続けた意志を讃え
生誕100年・被爆70年を記念して歌碑を建立した。
平成27(2015)年11月吉日
二葉あき子歌碑建立委員会 委員長 原田康夫
二葉あき子歌碑建立委員会
TEL 090-8602-1043