「ヒロシマ・音の記憶Vol. 5.〜生きる〜」シンポジウム 開催しました。
ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––
2014年11月29日(土曜)16:30~18:30 広島まちづくり市民交流プラザにて
司会者 能登原由美 (「ヒロシマと音楽」委員会委員)から趣旨説明
○ シンポジウムの主旨・背景・意義
1)「ヒロシマ・音の記憶」のプレ・イヴェントとして
本シンポジウムは、「ヒロシマと音楽」委員会が12月13日に広島流川教会で開催するコンサート、「ヒロシマ・音の記憶Vol.5〜生きる〜」のプレ・イヴェントとして企画されたものである。シンポジウムの主旨にもつながることから、まずは主催者の「ヒロシマと音楽」委員会とコンサートの背景について、簡単に説明したい。
「ヒロシマと音楽」委員会は、被爆50年目となる1995年に、「ヒロシマ・ナガサキ」や「反核・反戦」などをテーマとした音楽作品の収集とデータベース化を目的として発足した広島の市民団体である。発足から20年近くを経た現在、委員会では、こうしたテーマをもつ音楽作品について2000曲近くの作品のデータベース化を行なっており、2004年にはデータの一部を広島市に移管するとともに、2006年には『ヒロシマと音楽』と題する本を刊行した。
一方、こうした作品を実際に上演することにより広く紹介しようという意図から、「ヒロシマ・音の記憶」と題するコンサートシリーズを2010年に開始した。このコンサートでは、「ヒロシマ」をテーマとする音楽作品の紹介を念頭に置きながらも、被爆後の広島で復興を目指して行なわれた市民による音楽活動の重要性を認識し、そうした活動に着目することで、市民生活や文化の復興というソフト面における戦後復興の様子も紹介している(例えば第2回や第4回など)。年1回、計5回までの開催を目標にしており、今年はその最終回となる第5回目のコンサートとなる。
今年のコンサートでは、広島流川教会で被爆2年後に行なわれたクリスマス音楽礼拝と演奏会を振り返る企画を行なう予定である。コンサート自体の主旨や意義については、企画者でもある「ヒロシマと音楽」委員会の光平有希委員による後ほどの報告に委ねよう。
2)「広島の音楽史」記録・編纂プロジェクトについて
一方、「ヒロシマと音楽」委員会では、5年前から「広島の音楽史」記録・編纂プロジェクトを開始している。このプロジェクトは、洋楽(特に「クラシック音楽」)に焦点を当てた上で、明治期以降、洋楽が広島の地でどのように普及し、浸透していったのか、その普及と浸透の過程を、資料調査とインタビュー調査を中心に記録し、編纂しようというものである。「ヒロシマと音楽」委員会に所属する4人の音楽研究者により行なわれており、すでに昨年と今年の2回にわたり学会報告を行った。このような日本近代の地方における洋楽の受容・普及に関する研究については、すでに各地で行なわれているが、原爆により多くの人材、文化財が失われた広島では、特に戦前、戦中期の記録を辿るのが非常に難しいといわれ、本格的な調査はまだ行われていない状況であった。そのため、このプロジェクトでは、資料の掘り起こしから始めるという非常に気の遠くなるような作業を積み重ねているところである。そして今回のコンサートにつながる点でもあるが、このプロジェクトの中でキリスト教関連組織・団体の洋楽普及調査を担当している光平委員が新たに掘り起こした事実や資料が非常に興味深く、またコンサートとしても楽しめる、価値のあるものではないかということで、この度の企画が生まれることになった。
3)「広島の音楽史」における本企画の位置づけ
それでは、実際にこの「広島の音楽史」の中では、今回のシンポジウムとコンサートで取り上げる広島流川教会の音楽活動はどのように位置づけられるであろうか。
広島における洋楽の受容と普及、とりわけ西洋楽器や西洋音楽様式による作品の普及という点では、広島高等師範学校を中心とする高等教育機関や軍楽隊(呉海軍軍楽隊、広島大本営に一時駐屯した陸軍軍楽隊など)、それにミッションスクールとその母体教会が非常に重要な役割を果たしていることが明らかとなっている。なかでも、ミッションスクールについては、広島では1887年(明治20年)に「広島女学院」の前身となる「廣島英和女學校」がまず開校しており、光平委員のこれまでの調査によれば、すでに開校当初から音楽科の授業が設けられたり、ほどなくして管弦楽団も組織されたりするなど、早くから西洋音楽の導入と教育が行なわれていたとみられる。これは、広島の他のどの施設よりも早いことが、私たちのプロジェクト研究で明らかとなっている。さらに、その母体教会である広島流川教会においても、西洋楽器による演奏会の開催や音楽礼拝など、広島の洋楽普及に大きく貢献する活動が行われていたとみられる。
しかしながら、周知のように、戦時体制に入り自由な音楽活動は徐々に制限され、そして1945年8月6日の原爆投下によってそれまで培われた音楽活動は大きな損失を受けた。そうした中で、広島流川教会では被爆の翌年には慈善音楽会を開催するなど、音楽を通じて広島の復興に尽力したという。その様子については、光平委員の本日の報告を待つことにしよう。ここで述べておきたいのは、こうした被爆直後からの音楽活動を通じた復興も、明治期以降、教会が長い年月を経て養った音楽文化の土台があったからであり、それに尽力した宣教師や牧師、教会員たちの功績について、改めて注目する必要があるのではないかという点である。
以上がコンサート、ならびにそのプレ・イヴェントとしての本日のシンポジウムの企画主旨であるが、本日のシンポジウムではあえて音楽に特化するのではなく、広島流川教会での復興に向けた活動や思想を広い角度から捉えることで、その音楽活動をも捉えていくこととした。よって、本日の報告者3名のうちの2名は音楽研究者ではないが、この企画の内容を違った角度から捉え、より深い議論をもたらしてくれるものと期待する。
シンポジウム 要旨
「ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––
広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~
桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)
年代:1945年~1950年
要旨
広島の「復興」と云えば、丹下健三設計の平和公園や原爆ドーム、平和記念資料館に注目が集まってきたように思います。「復興」とは何でしょうか。失った街を元通りに再建することでしょうか。破壊された街に、新しい建物の建設や記念碑の建立を行うことを意味するのでしょうか。
その「復興」観に対して、報告者はこれまでの研究において、広島と長崎の被爆地で市民から見た「復興」の問題点を挙げながら、「生きる」ことを根本にした被爆者にとっての復興について研究を行ってきました。本講演会では、谷本清牧師の思想と活動を通して、「復興」を考察したいと思います。
原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分、谷本牧師は、爆心地から約3.2kmの距離で被爆しました。奇跡的に傷一つ負わなかった彼は、その後、被爆により、爆心地から逃げてくる重傷者たちと出会います。全市が原爆により炎に包まれていく様子を目の当たりにしながら、谷本牧師は、火の海の中にいるであろう教会員や町内会の人、そして家族のことが心配になり、負傷者の群れとは逆に市内の方面へと進んでいきました。その際に、直視した被爆体験の悲惨さ。助けることのできなかった負傷者たち。牧師として自らの責務を果たせたのか、という自問。谷本牧師は、自らも被爆者でありながら、負傷者たちを救えなかったことに自責の念に駆られます。この無残な被爆体験は、彼が平和運動に身を捧げる原点となったといえるでしょう。被爆から1か月後の9月下旬には、彼自身が放射線障害ともいうべき症状に襲われて寝込みます。体調の回復後、彼が真っ先に取り組んだのは破壊された流川教会の復興です。教会員の信仰の厚さと信者の教会復興への願いが彼の心を更に動かし、支えとなるのです。そして、被爆地に留まり教会の復興と伝道に力を尽くしました。廃墟の中、支援も救援もない中で彼は教会の復興に孤軍奮闘します。そんな彼の道を開いた一つの大きなきっかけとなったのは、彼の被爆体験がジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で紹介されたことです。これにより、彼の被爆体験は米国をはじめとして世界に知られるようになり、支援の道を獲得していくのです。
目の前の被爆者を救うために自分に何ができるかを問いながら、格闘していった谷本牧師の思想と行動を通して、被爆地において取り組まれた復興を考察したいと思います。
ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える ~谷本清牧師を中心に~
川口悠子 (法政大学講師)
年代:1930年代~1940年
要旨
ヒロシマ・ピース・センターの設立には、米国の人々の協力が得られたことが重要なファクターとなっていました。谷本清牧師は1948年10月から1949年12月、1950年9月から1951年7月など、数次にわたって米国を訪問し、ピース・センター設立の方途を探りました。その努力の中で1949年3月にニューヨークでヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ(協力会)が設立されたことは、広島でピース・センターが設立され、被爆者救援事業を進めるにあたり、大きな力となりました。
ところで、当時日本は米国の占領下にあり、海外渡航はごく限られた人しかできませんでした。また、米国では、原爆投下は仕方なかったという世論が多数派を占めていたことはよく知られています。その中で、谷本牧師はなぜ長期間にわたって米国を訪問し、多くの人にはたらきかけることができたのでしょうか。この報告では、これらの疑問を通じて、ヒロシマ・ピース・センターの設立過程について考えます。
その際のカギのひとつは、谷本牧師と米国の人々との結びつきの原点ともいえる、牧師の米国留学経験です。谷本牧師は1937年7月から1941年春まで、米国に留学していました。エモリー大学神学部(ジョージア州アトランタ)で学ぶあいだ、谷本牧師は教員や同級生など、多くの人の知遇を得ました。帰国後まもなく日米のあいだに戦端が開かれたことで、交流はいったん難しくなりました。しかし戦後、谷本牧師がジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」の主人公のひとりとなったことで、エモリー大学関係者らは、谷本牧師が原爆に遭い、生き延びたことを知ります。こうして交流が再開し、米国メソジスト教会が谷本牧師を招待したことで、当時としては異例の米国訪問が実現したのです。留学時代に築いた人間関係は、牧師が米国でピース・センターへの賛同者を探す際にも、重要な役割を果たしました。
このように、ピース・センターの設立にあたり、谷本牧師の留学経験は、広島と米国での活動をつなぐ役割を果たしました。報告では、具体的なエピソードも交えつつ、ピース・センターの設立過程について、谷本牧師と米国の人々とのかかわりから考えていきます。
広島流川教会における復興と音楽との歩み ~谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として~
光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)
年代:1945年~1951年
要旨
広島流川教会は被爆後のヒロシマの地で、復興への長き道のりを音楽と共に歩んできました。本教会は、被爆翌年より早くも慈善音楽会や進駐軍を招いての演奏会のほか、市民クリスマスも開催するなど、大いに市民を音楽で勇気づけました。
1947年秋には、当時、広島流川教会の主任牧師であった谷本清牧師の留学時代の知人リリアン・コンデット氏から《メサイア》の楽譜30冊が贈られてきます。それを契機として、広島師範学校の音楽教師であった太田司朗氏を中心として教会員や師範学校の生徒による男女混声合唱の聖歌隊が組織。同年12月21日に教会で行われたクリスマス讃美礼拝のほか、24日に行われた第2回市民クリスマスで《メサイア》の抜粋演奏会が行われました。さらに同日の夕刻には「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」として広島流川教会からラジオ生中継が行われ、市民に向け、平和への道を音楽と共に歩むという彼らのメッセージが電波を通じて広く伝えられました。なお、本放送では聖書朗読や祈祷に加え、讃美歌2曲と、ここでも《メサイア》より〈ハレルヤコーラス〉の演奏が行われています。
さらに、音楽でヒロシマ、そして日本の平和的復興を願った谷本清牧師及び太田司朗氏は、音楽活動のみならず、これからの時代を担う幼い子どもたちへの音楽教育にも目を向けました。そして彼らは、太田司朗氏の生徒であった板野平氏を、1951年にアメリカのダルクローズ音楽学校へ奨学生として派遣し、そこで得た新しい音楽教育の萌芽が日本中で開花し、拡がることを願ったのです。この願いに応えるように板野氏は帰国後、この世を去るまで日本におけるリトミック教育の普及・発展に尽力し続けます。このように谷本清牧師、そして太田司朗氏の想いは、広島のみならず日本中で今も生き続けているのです。