お知らせ

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「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」朝日新聞広島版で紹介されました

「ヒロシマと音楽」委員会が企画している「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」の取組みが12月5日(金)朝日新聞広島版で紹介されました。

asahi-np 20141205 vol.5

「Xマス音楽礼拝」
    67年ぶり再現公演
       広島流川教会で13日

1947年12月24日、ラジオで広島市やその周辺で放送されたクリスマス特別番組「クリスマス音楽礼拝」を再現する演奏会を、今月13日に広島流川教会(中区上職町) で開く。
 13日の演奏会では前半で、当時放送された番組の進行表に基づいて約15分間の演奏を合唱団と管弦楽団が再現する。後半の部でヘンデルの「メサイア」から抜粋した曲を演奏する。        一
原爆投下の翌年から同教会は、慈善音楽会や他の教会と協力した「市民クリスマス」などを開催し、市民を音楽で勇気づけていた。
 47年秋、同教会に米国に住む音楽教師から「メサイア」の楽譜が贈られたのを機に、教会員や師範学校の生徒らが男女混声合唱の聖歌隊を結成。この年のクリスマスイブに賛美歌やヘンデルの「メサイア」の抜粋曲「ハレルヤ」を歌ったものをラジオで生中継した。
当時、同教会の主任牧師だった谷本清さんの家族がヽメサイアの楽譜と番組の進行表を保存していたことを市民団体「ヒロシマと音楽」委員会(082・502・6304)が知り、今回の演奏会を企画した。
演奏会は13日午後6時から。チケットは前売り券(千円)のみでエディオン広島本店で購入できる。

朝日新聞20141205

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5〜生きる〜」シンポジウム 開催しました

「ヒロシマ・音の記憶Vol. 5.〜生きる〜」シンポジウム 開催しました。

ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

2014年11月29日(土曜)16:30~18:30  広島まちづくり市民交流プラザにて

司会者  能登原由美 (「ヒロシマと音楽」委員会委員)から趣旨説明

○ シンポジウムの主旨・背景・意義
1)「ヒロシマ・音の記憶」のプレ・イヴェントとして
本シンポジウムは、「ヒロシマと音楽」委員会が12月13日に広島流川教会で開催するコンサート、「ヒロシマ・音の記憶Vol.5〜生きる〜」のプレ・イヴェントとして企画されたものである。シンポジウムの主旨にもつながることから、まずは主催者の「ヒロシマと音楽」委員会とコンサートの背景について、簡単に説明したい。
「ヒロシマと音楽」委員会は、被爆50年目となる1995年に、「ヒロシマ・ナガサキ」や「反核・反戦」などをテーマとした音楽作品の収集とデータベース化を目的として発足した広島の市民団体である。発足から20年近くを経た現在、委員会では、こうしたテーマをもつ音楽作品について2000曲近くの作品のデータベース化を行なっており、2004年にはデータの一部を広島市に移管するとともに、2006年には『ヒロシマと音楽』と題する本を刊行した。
一方、こうした作品を実際に上演することにより広く紹介しようという意図から、「ヒロシマ・音の記憶」と題するコンサートシリーズを2010年に開始した。このコンサートでは、「ヒロシマ」をテーマとする音楽作品の紹介を念頭に置きながらも、被爆後の広島で復興を目指して行なわれた市民による音楽活動の重要性を認識し、そうした活動に着目することで、市民生活や文化の復興というソフト面における戦後復興の様子も紹介している(例えば第2回や第4回など)。年1回、計5回までの開催を目標にしており、今年はその最終回となる第5回目のコンサートとなる。
今年のコンサートでは、広島流川教会で被爆2年後に行なわれたクリスマス音楽礼拝と演奏会を振り返る企画を行なう予定である。コンサート自体の主旨や意義については、企画者でもある「ヒロシマと音楽」委員会の光平有希委員による後ほどの報告に委ねよう。

2)「広島の音楽史」記録・編纂プロジェクトについて
一方、「ヒロシマと音楽」委員会では、5年前から「広島の音楽史」記録・編纂プロジェクトを開始している。このプロジェクトは、洋楽(特に「クラシック音楽」)に焦点を当てた上で、明治期以降、洋楽が広島の地でどのように普及し、浸透していったのか、その普及と浸透の過程を、資料調査とインタビュー調査を中心に記録し、編纂しようというものである。「ヒロシマと音楽」委員会に所属する4人の音楽研究者により行なわれており、すでに昨年と今年の2回にわたり学会報告を行った。このような日本近代の地方における洋楽の受容・普及に関する研究については、すでに各地で行なわれているが、原爆により多くの人材、文化財が失われた広島では、特に戦前、戦中期の記録を辿るのが非常に難しいといわれ、本格的な調査はまだ行われていない状況であった。そのため、このプロジェクトでは、資料の掘り起こしから始めるという非常に気の遠くなるような作業を積み重ねているところである。そして今回のコンサートにつながる点でもあるが、このプロジェクトの中でキリスト教関連組織・団体の洋楽普及調査を担当している光平委員が新たに掘り起こした事実や資料が非常に興味深く、またコンサートとしても楽しめる、価値のあるものではないかということで、この度の企画が生まれることになった。

3)「広島の音楽史」における本企画の位置づけ
それでは、実際にこの「広島の音楽史」の中では、今回のシンポジウムとコンサートで取り上げる広島流川教会の音楽活動はどのように位置づけられるであろうか。
広島における洋楽の受容と普及、とりわけ西洋楽器や西洋音楽様式による作品の普及という点では、広島高等師範学校を中心とする高等教育機関や軍楽隊(呉海軍軍楽隊、広島大本営に一時駐屯した陸軍軍楽隊など)、それにミッションスクールとその母体教会が非常に重要な役割を果たしていることが明らかとなっている。なかでも、ミッションスクールについては、広島では1887年(明治20年)に「広島女学院」の前身となる「廣島英和女學校」がまず開校しており、光平委員のこれまでの調査によれば、すでに開校当初から音楽科の授業が設けられたり、ほどなくして管弦楽団も組織されたりするなど、早くから西洋音楽の導入と教育が行なわれていたとみられる。これは、広島の他のどの施設よりも早いことが、私たちのプロジェクト研究で明らかとなっている。さらに、その母体教会である広島流川教会においても、西洋楽器による演奏会の開催や音楽礼拝など、広島の洋楽普及に大きく貢献する活動が行われていたとみられる。
しかしながら、周知のように、戦時体制に入り自由な音楽活動は徐々に制限され、そして1945年8月6日の原爆投下によってそれまで培われた音楽活動は大きな損失を受けた。そうした中で、広島流川教会では被爆の翌年には慈善音楽会を開催するなど、音楽を通じて広島の復興に尽力したという。その様子については、光平委員の本日の報告を待つことにしよう。ここで述べておきたいのは、こうした被爆直後からの音楽活動を通じた復興も、明治期以降、教会が長い年月を経て養った音楽文化の土台があったからであり、それに尽力した宣教師や牧師、教会員たちの功績について、改めて注目する必要があるのではないかという点である。
以上がコンサート、ならびにそのプレ・イヴェントとしての本日のシンポジウムの企画主旨であるが、本日のシンポジウムではあえて音楽に特化するのではなく、広島流川教会での復興に向けた活動や思想を広い角度から捉えることで、その音楽活動をも捉えていくこととした。よって、本日の報告者3名のうちの2名は音楽研究者ではないが、この企画の内容を違った角度から捉え、より深い議論をもたらしてくれるものと期待する。

シンポジウム  要旨

「ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

 

 広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~  

桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)

年代:1945年~1950年

要旨

広島の「復興」と云えば、丹下健三設計の平和公園や原爆ドーム、平和記念資料館に注目が集まってきたように思います。「復興」とは何でしょうか。失った街を元通りに再建することでしょうか。破壊された街に、新しい建物の建設や記念碑の建立を行うことを意味するのでしょうか。

その「復興」観に対して、報告者はこれまでの研究において、広島と長崎の被爆地で市民から見た「復興」の問題点を挙げながら、「生きる」ことを根本にした被爆者にとっての復興について研究を行ってきました。本講演会では、谷本清牧師の思想と活動を通して、「復興」を考察したいと思います。

原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分、谷本牧師は、爆心地から約3.2kmの距離で被爆しました。奇跡的に傷一つ負わなかった彼は、その後、被爆により、爆心地から逃げてくる重傷者たちと出会います。全市が原爆により炎に包まれていく様子を目の当たりにしながら、谷本牧師は、火の海の中にいるであろう教会員や町内会の人、そして家族のことが心配になり、負傷者の群れとは逆に市内の方面へと進んでいきました。その際に、直視した被爆体験の悲惨さ。助けることのできなかった負傷者たち。牧師として自らの責務を果たせたのか、という自問。谷本牧師は、自らも被爆者でありながら、負傷者たちを救えなかったことに自責の念に駆られます。この無残な被爆体験は、彼が平和運動に身を捧げる原点となったといえるでしょう。被爆から1か月後の9月下旬には、彼自身が放射線障害ともいうべき症状に襲われて寝込みます。体調の回復後、彼が真っ先に取り組んだのは破壊された流川教会の復興です。教会員の信仰の厚さと信者の教会復興への願いが彼の心を更に動かし、支えとなるのです。そして、被爆地に留まり教会の復興と伝道に力を尽くしました。廃墟の中、支援も救援もない中で彼は教会の復興に孤軍奮闘します。そんな彼の道を開いた一つの大きなきっかけとなったのは、彼の被爆体験がジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で紹介されたことです。これにより、彼の被爆体験は米国をはじめとして世界に知られるようになり、支援の道を獲得していくのです。

目の前の被爆者を救うために自分に何ができるかを問いながら、格闘していった谷本牧師の思想と行動を通して、被爆地において取り組まれた復興を考察したいと思います。

 

ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える ~谷本清牧師を中心に~

川口悠子 (法政大学講師)

年代:1930年代~1940年

要旨

ヒロシマ・ピース・センターの設立には、米国の人々の協力が得られたことが重要なファクターとなっていました。谷本清牧師は1948年10月から1949年12月、1950年9月から1951年7月など、数次にわたって米国を訪問し、ピース・センター設立の方途を探りました。その努力の中で1949年3月にニューヨークでヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ(協力会)が設立されたことは、広島でピース・センターが設立され、被爆者救援事業を進めるにあたり、大きな力となりました。

ところで、当時日本は米国の占領下にあり、海外渡航はごく限られた人しかできませんでした。また、米国では、原爆投下は仕方なかったという世論が多数派を占めていたことはよく知られています。その中で、谷本牧師はなぜ長期間にわたって米国を訪問し、多くの人にはたらきかけることができたのでしょうか。この報告では、これらの疑問を通じて、ヒロシマ・ピース・センターの設立過程について考えます。

その際のカギのひとつは、谷本牧師と米国の人々との結びつきの原点ともいえる、牧師の米国留学経験です。谷本牧師は1937年7月から1941年春まで、米国に留学していました。エモリー大学神学部(ジョージア州アトランタ)で学ぶあいだ、谷本牧師は教員や同級生など、多くの人の知遇を得ました。帰国後まもなく日米のあいだに戦端が開かれたことで、交流はいったん難しくなりました。しかし戦後、谷本牧師がジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」の主人公のひとりとなったことで、エモリー大学関係者らは、谷本牧師が原爆に遭い、生き延びたことを知ります。こうして交流が再開し、米国メソジスト教会が谷本牧師を招待したことで、当時としては異例の米国訪問が実現したのです。留学時代に築いた人間関係は、牧師が米国でピース・センターへの賛同者を探す際にも、重要な役割を果たしました。

このように、ピース・センターの設立にあたり、谷本牧師の留学経験は、広島と米国での活動をつなぐ役割を果たしました。報告では、具体的なエピソードも交えつつ、ピース・センターの設立過程について、谷本牧師と米国の人々とのかかわりから考えていきます。

 

広島流川教会における復興と音楽との歩み ~谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として~

光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)

年代:1945年~1951年

要旨

 広島流川教会は被爆後のヒロシマの地で、復興への長き道のりを音楽と共に歩んできました。本教会は、被爆翌年より早くも慈善音楽会や進駐軍を招いての演奏会のほか、市民クリスマスも開催するなど、大いに市民を音楽で勇気づけました。

1947年秋には、当時、広島流川教会の主任牧師であった谷本清牧師の留学時代の知人リリアン・コンデット氏から《メサイア》の楽譜30冊が贈られてきます。それを契機として、広島師範学校の音楽教師であった太田司朗氏を中心として教会員や師範学校の生徒による男女混声合唱の聖歌隊が組織。同年12月21日に教会で行われたクリスマス讃美礼拝のほか、24日に行われた第2回市民クリスマスで《メサイア》の抜粋演奏会が行われました。さらに同日の夕刻には「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」として広島流川教会からラジオ生中継が行われ、市民に向け、平和への道を音楽と共に歩むという彼らのメッセージが電波を通じて広く伝えられました。なお、本放送では聖書朗読や祈祷に加え、讃美歌2曲と、ここでも《メサイア》より〈ハレルヤコーラス〉の演奏が行われています。

さらに、音楽でヒロシマ、そして日本の平和的復興を願った谷本清牧師及び太田司朗氏は、音楽活動のみならず、これからの時代を担う幼い子どもたちへの音楽教育にも目を向けました。そして彼らは、太田司朗氏の生徒であった板野平氏を、1951年にアメリカのダルクローズ音楽学校へ奨学生として派遣し、そこで得た新しい音楽教育の萌芽が日本中で開花し、拡がることを願ったのです。この願いに応えるように板野氏は帰国後、この世を去るまで日本におけるリトミック教育の普及・発展に尽力し続けます。このように谷本清牧師、そして太田司朗氏の想いは、広島のみならず日本中で今も生き続けているのです。

 

 

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」中国新聞朝刊―芸能欄―で紹介されました

「ヒロシマと音楽」委員会が企画している「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」の取組みが11月22日(土)中国新聞朝刊―芸能欄―で紹介されました。

47年のクリスマス音楽礼拝再現
     復興のメサイア 時を超え
      来月13日 広島流川教会
             当時の進行表手本

被爆地ヒロシマの年の瀬に、平和を願って響くヘンデルの「メサイア」。その歌声を広島県内に広げるきっかけになったのが、被爆2年後に広島流川教会(広島市中区)で開かれたクリスマス音楽礼拝だ。ラジオで県内に届けられた礼拝を再現するコンサートが12月13日。同教会である。広島の音楽関係者たちが毎年続けてきた「ヒロシマ・音の記憶」の最後を飾るシリーズ第5弾。人々に希望の光を与え、復興を支えた楽曲に込められた思いに迫る。
(以下、下記の中国新聞をクリック下さい。)
chugoku-np vol.5

再現に取り組む「ヒロシマと音楽」委員会の光平有希さんが紹介されています。

中国新聞朝刊 芸能欄

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」シンポジウムの案内 

 

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」 シンポジウム

    ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

日時:2014年11月29日(土曜)16:30~18:30

場所:広島まちづくり市民交流プラザ・北棟5F 研修室B

                 (広島市中区袋町6番36号)

参加費:無料

司会:   能登原由美 (「ヒロシマと音楽」委員会委員)

発表:●  桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)

              広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~

      ●  川口悠子 (法政大学講師)

              ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える––––谷本清牧師を中心に

      ●  光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)

              広島流川教会における復興と音楽との歩み―谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として

 

シンポジウム  要旨

「ヒロシマ復興と広島流川教会との歩み––––思想・活動・音楽––––

 

 広島『復興』の再考察 ~谷本清の思想と行動を通して~  
桐谷多恵子 (広島市立大学広島平和研究所講師)

年代:1945年~1950年

要旨

広島の「復興」と云えば、丹下健三設計の平和公園や原爆ドーム、平和記念資料館に注目が集まってきたように思います。「復興」とは何でしょうか。失った街を元通りに再建することでしょうか。破壊された街に、新しい建物の建設や記念碑の建立を行うことを意味するのでしょうか。

その「復興」観に対して、報告者はこれまでの研究において、広島と長崎の被爆地で市民から見た「復興」の問題点を挙げながら、「生きる」ことを根本にした被爆者にとっての復興について研究を行ってきました。本講演会では、谷本清牧師の思想と活動を通して、「復興」を考察したいと思います。

原子爆弾が投下された1945年8月6日午前8時15分、谷本牧師は、爆心地から約3.2kmの距離で被爆しました。奇跡的に傷一つ負わなかった彼は、その後、被爆により、爆心地から逃げてくる重傷者たちと出会います。全市が原爆により炎に包まれていく様子を目の当たりにしながら、谷本牧師は、火の海の中にいるであろう教会員や町内会の人、そして家族のことが心配になり、負傷者の群れとは逆に市内の方面へと進んでいきました。その際に、直視した被爆体験の悲惨さ。助けることのできなかった負傷者たち。牧師として自らの責務を果たせたのか、という自問。谷本牧師は、自らも被爆者でありながら、負傷者たちを救えなかったことに自責の念に駆られます。この無残な被爆体験は、彼が平和運動に身を捧げる原点となったといえるでしょう。被爆から1か月後の9月下旬には、彼自身が放射線障害ともいうべき症状に襲われて寝込みます。体調の回復後、彼が真っ先に取り組んだのは破壊された流川教会の復興です。教会員の信仰の厚さと信者の教会復興への願いが彼の心を更に動かし、支えとなるのです。そして、被爆地に留まり教会の復興と伝道に力を尽くしました。廃墟の中、支援も救援もない中で彼は教会の復興に孤軍奮闘します。そんな彼の道を開いた一つの大きなきっかけとなったのは、彼の被爆体験がジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で紹介されたことです。これにより、彼の被爆体験は米国をはじめとして世界に知られるようになり、支援の道を獲得していくのです。

目の前の被爆者を救うために自分に何ができるかを問いながら、格闘していった谷本牧師の思想と行動を通して、被爆地において取り組まれた復興を考察したいと思います。

 

ヒロシマ・ピース・センターの背景を考える ~谷本清牧師を中心に~
川口悠子 (法政大学講師)

年代:1930年代~1940年

要旨

ヒロシマ・ピース・センターの設立には、米国の人々の協力が得られたことが重要なファクターとなっていました。谷本清牧師は1948年10月から1949年12月、1950年9月から1951年7月など、数次にわたって米国を訪問し、ピース・センター設立の方途を探りました。その努力の中で1949年3月にニューヨークでヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ(協力会)が設立されたことは、広島でピース・センターが設立され、被爆者救援事業を進めるにあたり、大きな力となりました。

ところで、当時日本は米国の占領下にあり、海外渡航はごく限られた人しかできませんでした。また、米国では、原爆投下は仕方なかったという世論が多数派を占めていたことはよく知られています。その中で、谷本牧師はなぜ長期間にわたって米国を訪問し、多くの人にはたらきかけることができたのでしょうか。この報告では、これらの疑問を通じて、ヒロシマ・ピース・センターの設立過程について考えます。

その際のカギのひとつは、谷本牧師と米国の人々との結びつきの原点ともいえる、牧師の米国留学経験です。谷本牧師は1937年7月から1941年春まで、米国に留学していました。エモリー大学神学部(ジョージア州アトランタ)で学ぶあいだ、谷本牧師は教員や同級生など、多くの人の知遇を得ました。帰国後まもなく日米のあいだに戦端が開かれたことで、交流はいったん難しくなりました。しかし戦後、谷本牧師がジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」の主人公のひとりとなったことで、エモリー大学関係者らは、谷本牧師が原爆に遭い、生き延びたことを知ります。こうして交流が再開し、米国メソジスト教会が谷本牧師を招待したことで、当時としては異例の米国訪問が実現したのです。留学時代に築いた人間関係は、牧師が米国でピース・センターへの賛同者を探す際にも、重要な役割を果たしました。

このように、ピース・センターの設立にあたり、谷本牧師の留学経験は、広島と米国での活動をつなぐ役割を果たしました。報告では、具体的なエピソードも交えつつ、ピース・センターの設立過程について、谷本牧師と米国の人々とのかかわりから考えていきます。

 

広島流川教会における復興と音楽との歩み ~谷本清牧師及び太田司朗氏を中心として~
光平有希 (総合研究大学院大学博士後期課程在籍・「ヒロシマと音楽」委員会委員)

年代:1945年~1951年

要旨

 広島流川教会は被爆後のヒロシマの地で、復興への長き道のりを音楽と共に歩んできました。本教会は、被爆翌年より早くも慈善音楽会や進駐軍を招いての演奏会のほか、市民クリスマスも開催するなど、大いに市民を音楽で勇気づけました。

1947年秋には、当時、広島流川教会の主任牧師であった谷本清牧師の留学時代の知人リリアン・コンデット氏から《メサイア》の楽譜30冊が贈られてきます。それを契機として、広島師範学校の音楽教師であった太田司朗氏を中心として教会員や師範学校の生徒による男女混声合唱の聖歌隊が組織。同年12月21日に教会で行われたクリスマス讃美礼拝のほか、24日に行われた第2回市民クリスマスで《メサイア》の抜粋演奏会が行われました。さらに同日の夕刻には「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」として広島流川教会からラジオ生中継が行われ、市民に向け、平和への道を音楽と共に歩むという彼らのメッセージが電波を通じて広く伝えられました。なお、本放送では聖書朗読や祈祷に加え、讃美歌2曲と、ここでも《メサイア》より〈ハレルヤコーラス〉の演奏が行われています。

さらに、音楽でヒロシマ、そして日本の平和的復興を願った谷本清牧師及び太田司朗氏は、音楽活動のみならず、これからの時代を担う幼い子どもたちへの音楽教育にも目を向けました。そして彼らは、太田司朗氏の生徒であった板野平氏を、1951年にアメリカのダルクローズ音楽学校へ奨学生として派遣し、そこで得た新しい音楽教育の萌芽が日本中で開花し、拡がることを願ったのです。この願いに応えるように板野氏は帰国後、この世を去るまで日本におけるリトミック教育の普及・発展に尽力し続けます。このように谷本清牧師、そして太田司朗氏の想いは、広島のみならず日本中で今も生き続けているのです。

本報告では、音楽と共にヒロシマ復興の道を歩んだ教会の足跡原点に遡り、音楽の力を信じた彼らの音楽活動・教育とそこに込められた願いを紹介したいと思います。

さくら会 ~後世に残したい名曲と共に~Par、2

さくら会 ~後世に残したい名曲と共に~Par、2
企画・監修 藤田真弓

日時  平成26年11月29日 (土) 開場/ 17:30  開演 / 18:00

場所  広島県民文化センターホール
広島市中区大手町1-5-3  ℡ 082-245-2311

入場料 2,500円

プログラム

第一部「詩人の心を歌う」
~歌い継がれる名曲をあなたに~
・霧と話した(中田喜直)
・さくら横ちょう(別宮貞雄)
・みぞれに寄する愛の歌(山田耕筰)
・愛のささやき(小林秀雄)
・女声合唱組曲「水のいのち」(高田三郎) 他

第二部「後世に残したい童謡・唱歌」
~春夏秋冬~
・おぼろ月夜
・みかんの花咲く丘
・茶つみ
・われは海の子
・紅葉
・村まつり
・冬景色
・ペィチカ 他

出演
藤田 真弓(Sop.)
佐々木千穂(Sop.)
高見 昌男(Bar.)
藤原 敬 (Bar.)

松本 寛美(Pf)
溝辺 恭子(Pf)
大田 響子(Vn)
田中 穂蓄(ナレーション)

コーロ・フェリーチェ
矢野 文乙(Pf)

問い合わせ先  :さくら会事務局 ℡082-273-9423

詳細は  次のチラシ 表、裏 をご覧ください。

さくら会 チラシ表
さくら会 チラシ裏

「ヒロシマと音楽」委員会委員 藤田真弓さんの企画・監修・出演の音楽会です。

 

「ヒロシマ・音の記憶 vol.5~生きる~」チラシが出来ました

「ヒロシマ・音の記憶 vol.5~生きる~」チラシが出来ました

「ヒロシマと音楽」委員会は、2010年より、「ヒロシマ・音の記憶」シリーズとして、被爆後のヒロシマに関連する楽曲を集めた演奏会を毎年行ってきました。第5回目となる今年は、2014年12月13日に「ヒロシマ・音の記憶 vol.5 ~生きる~」と題し、ヒロシマ復興を音楽と共に歩んだ広島流川教会をはじめ、広島市内教会の足跡に焦点を当てた演奏会を開催します。

日時 : 2014年12月13日(土曜日)18:00~  
場所 : 日本キリスト教団 広島流川教会 広島市中区上幟町8-30

PROGRAM
第1部 クリスマス特別番組
『クリスマス音楽礼拝』復元演奏
  第2部 ≪メサイヤ≫抜粋演奏
  ======================================
  合唱 : 「ヒロシマ・音の記憶」合唱団
  管弦楽: 「ヒロシマ・音の記憶」管弦楽団
 総合指揮者 :松浦修  合唱指揮者/小玉好行
ソリスト  :ソプラノ:乗松恵美、アルト:井上美和、テノール:頃安利秀、バス:折河宏治
 
チラシ 表
Vol5-01
チラシ 表 pdf

お断り
(チラシには「ヤマハ広島店」も記載されていますが、こちらでの販売はなくなりましたのでご了解ください)

チラシ 裏
Vol5-02
チラシ 裏 pdf

Ⅴocal Concert クローバーの会 演奏会

Ⅴocal Concert クローバーの会

日時  2014年11月7日 (金)  開場/ 13:30  開演 / 14:00

場所  広島市東区民文化センター スタジオ 1(小ホール)

出演  ソプラノ   松尾聡子

    メゾソプラノ 品川喜久子

    テノール   吉岡幹夫

    バリトン   才木幹夫

    ピアノ    町野美智枝

プログラム

  詳細は  次のプログラムをご覧ください。

Ⅴocal Concert クローバーの会

「ヒロシマと音楽」委員会委員 才木幹夫さんが参画している音楽会です。

 

市民がともに奏でたい 能登原由美さん 中国新聞記事 オピニオン から

HP情報  市民がともに奏でたい 能登原由美さん 

市民がともに奏でたい 「ヒロシマと音楽」委員会メンバー 能登原由美さん
  2014年8月6日中国新聞記事 オピニオン に掲載

原爆投下から69年。あの日を知る被爆者が減ってきた。惨状を直接聞くことは難しくなりつつあるが、平和の願いを込めた芸術作品は継承や発信を担いうるに違いない。そう信じて楽曲をデータベース(DB)化し、活用を考えるグループがある。「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美さん( 43)に課題や取り組みの展望を聞いた。

Q ヒロシマに関する音楽は一体、どれくらいあるんですか。

これまで1900曲以上について題名や製作年、作曲作詞者、歌詞などをDB化しました。あの日の惨状や反核をテーマにした交響曲や合唱曲、ジャズ、歌謡曲など多彩です。 
前身の実行委員会が着手し、10年前に完成しましたが、今も新たに作られる音楽や発掘される曲があれば情報を更新し、楽譜や資料も収集しています

 以下は、下記の中国新聞記事を参照下さい。

中国新聞記事 市民がともに奏でたい

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」合唱団員募集

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」合唱団員募集

「ヒロシマと音楽」委員会は、2010年より、「ヒロシマ・音の記憶」シリーズとして、被爆後のヒロシマに関連する楽曲を集めた演奏会を毎年行ってきました。第5回目となる今年は、20141213日に「ヒロシマ・音の記憶vol.5 ~生きる~」と題し、ヒロシマ復興を音楽と共に歩んだ広島流川教会をはじめ、広島市内教会の足跡に焦点を当てた演奏会を開催します。そこで、ヘンデル作曲《メサイア》より抜粋曲(合唱9曲)及び讃美歌(2曲)を歌っていただく男声合唱団員の方々を募集しています。みなさま、是非ともご参加くださいますようお願いいたします。

 【本番詳細】

日時/2014年12月13日(土曜日)18:00~  場所/日本キリスト教団 広島流川教会

総合指揮者/松浦修  合唱指揮者/小玉好行

ソリスト/ソプラノ:乗松恵美、アルト:井上美和、テノール:頃安利秀、バス:折河宏治

管弦楽/「ヒロシマ・音の記憶」管弦楽団

【参加条件】 これまでに《メサイア》の合唱経験がある男性の方

【合唱練習日時】日曜日・14001700

8/31日  9/21日・28日  10/12日・19日・26日   11/9日・23日・30日 12/7日

【合唱練習場所】YMCA広島1号館(専門学校) 地下自習室(※数回、別室練習あり)

【合唱指導】小玉好行

【使用楽譜】①ヘンデル作曲《メサイア》(ベーレンライター版)

※ベーレンライター版以外のお手持ちの楽譜でも構いません。各自でご準備のほど宜しくお願いします。

       ②讃美歌(旧 讃美歌) ※楽譜はこちらで準備いたします。

【お問合わせ先】 TEL:082-502-6304 (担当 光平)

                   e-mail:hirongaku@hirongaku.com

「ヒロシマ・音の記憶vol.5 ~生きる~」 演奏会の主旨

 1945年、焦土と化したヒロシマ――。そのヒロシマ復興の長きに亘る道のりを、音楽と共に歩み続けた教会がありました。それが広島流川教会です。本教会は、被爆翌年から慈善音楽会を開催するほか、市内の他教会と共に「広島市基督教連合会」主催で演奏中心の市民クリスマスを行うなど、市民を音楽で勇気づけることに重きを置きました。その背後には当時、広島流川教会の主任牧師であった谷本清師、そして広島流川教会員であり、広島師範学校の音楽教師であった太田司朗氏の存在が大きく拘わっています。1947年秋には谷本師の知人・シカゴの音楽教師リリアン・コンデット氏から《メサイア》の楽譜30冊が贈られてきました。それを契機として、教会員や師範学校の生徒を中心に男女混声合唱の聖歌隊が組織され、同年の市民クリスマスや「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」の中で《メサイア》の抜粋演奏が行われます。『クリスマス音楽礼拝』は「広島市基督教連合会」主催でラジオ中継が行われ、市民に向け、平和への道を音楽と共に歩むという彼らのメッセージが広く伝えられました。

これらのことを受け、本コンサートでは教会が音楽と共に歩んだヒロシマ復興への足跡原点に遡り、教会とヒロシマ復興、そして市民との関係に大きな意味をもつ1947年12月24日に焦点を当て、第1部では「クリスマス特別番組『クリスマス音楽礼拝』」の復元、そして第2部では《メサイア》の抜粋演奏を行う予定です。

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」信濃毎日新聞で紹介

「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」信濃毎日新聞で紹介されました

「ヒロシマと音楽」委員会が企画している「ヒロシマ・音の記憶 Vol.5~生きる~」の取組みが7月29日(火)の夕刊で紹介されました。

被爆後の広島 市民に希望の灯
       爆心地の聖歌 再現へ
              12月に本番 世代つなぐ接点に

再現に取り組む「ヒロシマと音楽」委員会の光平有希さんが紹介されています。

この記事は共同通信の配信で全国各地の新聞・夕刊で紹介されています。

2014年7月29日(火)信濃毎日新聞・夕刊は、下記をご覧下さい。

信濃毎日新聞・夕刊

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ヒロシマと音楽

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